あなたがものを言わなくなってから、もう何日が経ちますか。
落ちくぼんだ目に骨と皮だけの身体。のどが切り開かれ人工呼吸器が差し込まれている。
なにも反応しないあなたに、みんな集まっています。
あなたが生きてきた時間に絡み合った人たちです。ここはとても暖かな空間です。
さっきまで、わずかカーテン一枚の向こうでは誰かの生死をかけてあわただしく治療が行われていました。
今は静けさを取り戻し、規則正しい人工呼吸器の音と、隣室からたまに響く心電図のアラームと、わたしたちの静かな雑談だけです。
ここにあるのは確実で、緩慢なエピローグ。
終章のあとに捧げられた、淡々と小洒落た文章のよう。聴こえますか。
聴こえますか。ヒトは全ての反応を失っても耳だけは聴こえるといいます。
もうわたしたちにはあなたに伝えることはないけれど。
あなたを理解しようとして、いろいろなものを学びとり、結局あなたをわからなかった。
もうあなたに学ぶことはできないけれど。ここで語り合うわたしたちの言葉が、わたしたちをより高めてくれます。
……いやだ、ほんとうはもっとあなたに学びたかった。
冷静でいる自分がいやだ。
これで終わりなのだと、自分に言い聞かせないといけないなんて。
この時間を心地好いと思っているなんて。「ヒトは死んだら、そのヒトの思ってる通りになるんだよ」
あなたは確かそう言っていた。あなたは大切な言葉ほど、他愛ない会話に混ぜてそっと口にするクセがあった。
そのあとあなたは何と言っていたのか。
もうあなたとは会話できないなんて。聴こえますか。
聴こえますか。平凡な人生にきらめくような魂を。
何気ない日常に宝石のような輝きを。
あなたは無様に生きた。今も何て無様な姿なんだ。
あなたはこの世界の住人ではないようだった。立派な会社員で魔法使いだった。
あなたは何を見てどんな空気を吸っていたの?
窓の外はいつのまにか霧がたちこめています。
森の清冽な風がほしくなり、そっと窓を開けました。
病室に忍び入る霧にまぎれ、キラキラと七色に瞬く光の粒たち。
歓喜、祝福するかのように、まとわりつくものたち。わかっているのは、もう今が終わりだってことだけです。
なぜこんなに悲しくないのか。
なぜこんなに心が暖かなのか。
いくつものあなたとの記憶が瞬時によみがえり去ってゆく。
あのときのあなたの言葉を思い出す。「僕の道は、地平線の闇までつづくひどく曲がりくねって細く荒れた道だ」
夕陽の差す、ブナの極相林。枯れ木に蔓草は絡まり、それもまた枯れて。
道は雑草に埋もれ、身をかがめて辛うじて小径の痕跡を辿り。
アザミの悪意に傷つきつつ。草の腐臭にむせて記憶を奪いさられて。
日暮れにおびえつつ、目的を忘れてもただ前に進み。妖精の小径の、ここは死と再生の森。
くさむらやウロの闇を見つめていると、物語の断片が現れては消える。
話しかけてくるものもある。たとえそれがあなたの恋人や子供の姿をしていてもここでは耳を傾けてはならない。
立ち止まれば闇に呑まれるのだから。進む方向は忘却の河を越えたその先にあるのだから。わたしが道を示そう。
わたしの指し示す先へ。
L'estate〜夏
あなたは、もう光の粒たちのもとへ旅立ってしまったのでしょうか。
もうわたしはあなたに何も聞くことができない。
わたしの答えは、わたし自身が探さないとならない。
今、わたしも曲がりくねった道の前に立っているのです。