夜の底は柔らかな幻〜第1章

Phase 1 "glass forest"(494/Autumn)

 鉱山町から山奥へ入り、しばらく歩くと、突然視界が開ける。
 紅葉が鮮やかに広がる。
 山脈の連なりがはるかかなたまで続いてかすむ。空は薄青く、ここちよい秋の風が頬をなぜていく。
 足元をみれば、野草がほの赤い花をつけ、群れをなし、けなげにその身を飾っている。
 しばらく、すばらしい風景にひたり続ける。
 だが、谷の底を見渡せば、木々はうっそうと茂り、日は当たらず、奈落の底のように暗く見えてしまう。
 道はけわしく、ないに等しい。
 それでも、今から谷の底へ行かねばならない。
 自然と、気持ちが重くなる……。
 荷物を傍らに下ろし、マイネクは座って、案内板によりかかって休憩を取った。
「……ふう、疲れる仕事だな……」
 マイネクは、もう肌に深くしわが刻まれ、髪も髭も真っ白になっているほどの年齢だ。こんな山道を歩くのは大変だ。
 それでも、彼以外に、この仕事を任せられる人はいなかった。
 魔法使いの杖を、歩く杖として使い、荷物を、できるだけ軽くしてリュックに詰めてきた。ここまできて、ようやく疲れが来たのである。
 案内板にはこう書いてある。
“この先危険。妖魔結界外”
 この先は、気を抜くわけにはいかない。
 水筒を出して、一口、口に含んだ。
「それでも、いかんといかんのだからな」
 ゆっくりと、腰を上げようとした。そのとき、ぱたぱたぱた、と妖精特有のリズミカルな羽音が、背後から聞こえてきた。
「マイネク、お久し振りね」
「んん?」
 首だけ、振り返って、妖精の顔を、じっと、のぞきこむ。妖精は、背丈が人の肘から手首ぐらいで、頭はクルミぐらいの大きさしかないのだ。
「……なんだ、フィビアさんか。君は確かこのあたりに住んでたんだな」
「まあ、そうよ。知り合いの顔が見えたから、ちょっとあいさつに来たのよ」
「それはどうも、ごていねいにな、でもわしは仕事の途中だ。あまりゆっくりともつきあってられないんだな」
 人好きの妖精と話しこんでいたら、いつまでたっても、やるべきことがはかどらない。
「……仕事? 結界がらみ?」
 くりっとした大きな瞳と、広い額がめじるしの、可愛い顔をちょっとかしげて、フィビアは聞き返した。
「そうだ。最近このへんで妖魔の騒ぎが少しあってな、『結界の根本を調べてこい』、と王城じきじきの命令だ」
「なあに、マイネク、まだ王城で仕事してんの?」
 フィビアは羽ばたきながら小さな顔をマイネクの鼻先に寄せ、不快だという表情をわざとらしく見せつけた。
 王城は妖精を嫌う、逆に、王城と対立している鉱山町ケンネは、妖精たちと長年のつきあいがある。
「王城近くのテイカスの結界が弱まっとるからな。こっちの様子も見に来なけりゃならん、ということだ」
「そうなの……。もうマイネクも鉱山町に来てしまえばいいのよ。いつまでも中途半端は危険だと思うわ」
「まあな。そのうち来るさ」
 さばさばと、マイネクは言った。
 (妖精にしては)大きな、かわいらしいためいきをついて、フィビアはマイネクにウインクして見せた。それから、強くはばたいて、宙返りするようにマイネクの背中の方へと回った。
「ところで……、『妖魔の騒ぎ』ってひょっとして女の子のこと?」
「『女の子』? なんだそれは?」
「……いや、まあ、あたしも見たことあるんだけど……結界の外で平気で妖魔と遊んでいる女の子がいて……」
「は?」
 マイネクは、すくっと立ち上がった。肩の上に乗ろうとしていたフィビアは、あわてて、身を後ろに引いた。
「そんなバカな! そんなことしたら骨までしゃぶられてしまうぞ、妖魔に」
 妖魔は、生物の生命力を吸って生きている。人に危害をおよぼすこともある。しかも、近年、妖魔の勢いは次第に強くなっているのだ。
「バカ……って……。あたしも確かに見たのよ。ちょっと背が高くて、なかなかかわいい女の子よ」
「そうか?……ま、とにかく結界には行ってみんとな。仕事はやらんといかん」
 数枚の護符が、リュックから取り出された。
 モゴモゴモゴ、と数節の呪文を唱えると、マイネクの「小箱」に記録されていた魔法が発動し、それによって護符の効力が発生する。
 この護符が、妖魔の攻撃を完全に防いでくれるのである。
「では、行きますか」
 マイネクは、杖を手にした。
「あ、あたしも行くわ」
 ちゃっかりと、フィビアはマイネクの肩の上に腰を下ろした。

 谷に入ると、地面は枯れ葉が積み重なり、腐ってこげ茶色になっていた。とてもすべりやすく、マイネクは杖を頼りに、なんとか谷を下りていった。
 じめじめして暗く、太陽の恩恵も谷底までは届いていないようだった。
「……よっ、と。ようやく着いたかな」
 一本の、大木の前に、たどりついた。
 大木はしめなわが巻かれ、木肌に、いくつかの呪文が刻み込まれている。この島に三つある、重要な妖魔結界の一つ、“テンヤン山麓結界”がこれなのだ。
 はためには、ふつうの、御神木にしか見えない。通常の言葉で「妖魔結界」とは書いてあるが、目立たなすぎて、普通の人の目にとまるとは思えない。
 しかし、魔法の視界を持つ人なら、この木から、不思議な力がにじみでていることに気がつくだろう。
 この木がもしも倒れたなら、イグゼム、イナムという二つの国が、多量の妖魔に襲われて、あっという間に滅亡するかもしれないのだ。
 検結界器、なるものが、リュックから取り出された。
 モゴモゴ……、呪文を唱える。マイネクの内面の魔法を発動させ、それが検結界器を作動させる。
 ただの木片にも見える、単純なものなのだが、効果の方は十分期待できる。中に封じてある妖魔に似たものが、結界にどの程度のスピードで吸収されるのか、数えればいいのだ。
「フィビアさん、できれば時間を読んでくれんかな?」
「いいわよ、どうしたらいいの?」
「ちょっと待ってな、今砂時計を出すから……、……ほい。これを見て、全部砂が落ち切ったら言ってくれ、わしは妖魔の数を数えておくからな」
「わかったわ」
 フィビアは、ぱたぱた、と羽ばたいて、するりと旋回し、地面に辛うじて顔を出している岩の上に、軽やかに着地した。
「いいか、いくぞ」
 コトリ、と砂時計が引っ繰り返される。
 検結界器から、ひとつ、またひとつと、淡く輝くカタマリが、妖魔結界である大木に、吸い込まれていく。
 砂時計から落ちる砂を、フィビアはばか正直なほど、じぃっと見ていた。
「………………おわりよ!」
「よし、ありがとうフィビアさん」
「……で、どうだったの?」
「うーむ、……四十三だ」
「四十三かあ、かなり優秀な数字じゃない」
 フィビアは、妖精の中でもかなりの魔法の使い手である。この妖魔結界の検結界器による数値が、ふだんは三十程度であることも、ちゃんと知っている。
「すると……」
「すると?」
「結界そのものは、弱まったりはしていない、ということだな」
「そうねえ、まあ、あたしが見た感じでも、そうだわ」
「フィビアさんもそう言うなら、間違いないだろ。だが、それなら何で妖魔の事件が増えてるのかな?」
 ゆっくりかがんで、マイネクはフィビアの顔を覗き込むようにした。その視線をかわすかのように、フィビアは、さっと飛び上がり、くるっと、マイネクの背後に回って肩の上に乗ってしまった。
「……大体、察しはついてるくせに、何で聞くのよ」
「おっと、これは失礼。ええと……」
「……ま、妖魔たちが活発になってるってことでしょ」
「そうだそうだ」
 マイネクは、何かを言い返そうとして、めんどくさそうにやめてしまった。
「そ、う、すると……」
「うむ……」
 白い髭を右手で、二度、三度としごく。考えあぐねている時のマイネクの癖だ。
「フィビアさん、今何時ぐらいかな?」
 軽くぱたぱたと羽ばたき、森の外に出て、フィビアは太陽の位置を確認した。
 再び、肩の上に戻って、マイネクの耳元にささやいた。
「橙の半ばぐらいね(午後三時頃)」
「なに、もうそんな時間か! これはいかん!」
「どうしたの?」
「妖魔が活発なら調べんといかんのだが、その時間がない」
 フィビアは、なーんだ、という顔をした。
「……明日またくればいいじゃない」
「しかしな、面倒だし、わしは、明後日には王城に帰らないとならんのだよ」
「なら、さっさと行って、簡単にすませてくれば?」
「……うむむ、……そうするかな」
 砂時計と検結界器をリュックにしまい、マイネクは立ち上がった。そして、入念に、護符のチェックをした。ここから先、この護符がなければ、妖魔にいつ襲われるかわからない。
「あたしもついてっていい?」
「ああ、構わんよ。心強いしな」
 妖精は、妖魔の一種みたいなものだが、理性的で、はっきりとした実体を持ち、人族とつきあう術を心得ている。人族から(ほんのわずか)生命力をもらうかわりに、人族を妖魔から守っているのだ。
 マイネクとフィビアは、より一層暗い森の中に、入っていった。

 森は、さらに生い茂り、じめじめして、どの木も木肌が腐っているような感じさえした。
 道らしいものはすでになく、地面のあちこちに、木の根や岩が張り出して、とても歩きにくい。ときどき、地面、と思ったところが、落ち葉のサクサクした固まりで、足で踏み抜いてしまって転びそうになる。
 時々、立ち枯れている木や、冬でもないのに葉を全部落としてしまっている木にでくわす。
「……妖魔の被害だろうな」
「そうね」
「やや、多いような感じだな」
「……そうみたいね」
 収妖の護符が、リュックから取り出された。いつものように、マイネクは呪文を唱えた。
「何匹か、妖魔を捕らえていきたいんだが」
「どうするの?」
「くわしく調べて、その出所を明らかにするのだ」
 マイネクは、蔦にからまれた大木に、護符をしかけ、自分は傍らの岩に腰を下ろした。
「時間あるかな?」
「なあに、ほんの一刻(15分位)ほどでいいのだ。数匹ほど妖魔がいれば、だいたいのことはわかる」
 小鳥がさえずり、虫の鳴き声がうるさいほどだった。やけに平和な森の光景を、マイネクはじっと見つめていた。だが、肝心の妖魔が、一匹も来ない。
「おかしいな、昔でも、これだけ待っていれば、一匹ぐらいはひっかかったものだが」
「そうよね。何か妖魔に避けられてるみたいね、不気味だわ」
 フィビアは、自分のとがった耳を、きゅっとつかんだ。そのまま、じっと精神を集中させる。そうすると、妖魔の雰囲気が音となって耳に伝わる。これがフィビアのやり方だった。
 しゃん、しゃん、と鈴のような音が聞こえてきた。
「あっちよ! かなりたくさん集まってる!」
「む?」
 ちいさな、指の先をずっと目で追っていくと、かなり遠くに、やけに明るい場所が見えた。暗い森のなかで、その淡い光のカタマリは、ひどく不自然な感じがした。
「遠いな」
「行って行けない距離じゃない、行こう!」
 先に飛び上がり、フィビアは枝の上からマイネクを振り返って手招きした。
「よし!」
 少し湿ったズボンから、ささっと木の葉を払って、マイネクは立ち上がった。
 リュックを素早く背中に回し、すべるのに気をつけながら、木の根を飛び越える。そこから、数歩、軽やかに坂を下りる。足をふんばって身体を止める。歳に似合わない、若々しい動きだ。
 さらに、一歩、足を踏み出そうとして…………
「わ! うわわわわっ!」
「マイネクっ! どうしたの!?」
 ぱたぱたぱた、とフィビアが飛んできた。一瞬、フィビアはマイネクの姿を見失ったが、すぐに見つけた。
 思い切り踏み込んだところが、腐った枯れ葉の山で、すべって、そのまま子供の背丈ぐらいの崖から落ちてしまっていたのだ。
「む、むむ、いててててて……」
「間抜けねー……」
「フィビアさん、それはないだろ。む、……確かに歳を考えない行動だったかもしれんが……あてててて」
「大丈夫? 立てる?」
「う、うむ、大丈夫だ、……あ、たた……」
「どうしたの?」
「どうも、腰をやられたらしい、足もくじいとるし……」
 その瞬間、フィビアは青ざめた。
「……まずくない? それ……」
 ふわっと羽を広げ、スピードを殺して一瞬浮き上がり、一歩ずつステップを踏んで、マイネクの足元に着地する。
 空は、こころなしか、赤味を帯びていた。普通に歩いても帰りには真っ暗になっているだろう。まして、今マイネクは歩ける状態ではない。
「治癒の呪文、効くかな……」
「……やってみないと、しょうがないだろうが、条件が悪すぎるな。フィビアさんには迷惑かけられん、なんとか自分でやってみよう」
 マイネクは、いつになく、覚悟を決めた、険しい表情をしていた。
 呪文は、ある。だが、治癒の呪文は力を多量に必要とする。ここは結界の外で妖魔地帯のどまんなかだ。魔法空間は乱れきっている。魔法の目を開くとまぶしいまでの光の束が見える。力を取るのは危険すぎる。
「待って、あたしがやるわ。これでも、妖魔の扱いだったらマイネクよりも上手いつもりよ」
「言いよるな。だけど、フィビアさんを危険にさらすわけにはいかん。ここで、魔法失敗するほど、わしもおいぼれてはおらん」
 けがした足を、かばうように動き、少しでも精神集中しやすい体勢を作った。すかさず呪文を唱え、魔法を発動させようとする。
「だーめよっ! けがの痛みだって、こんなときはまずいんだから。あたしにまかせてよ」
 マイネクの顔面間近に飛び上がり、元気のいい、高い声でフィビアはさけんだ。しかし、表情は、悲壮感が感じられた。
「ま、待て! 誰かいる!」
 手を伸ばして、フィビアをさえぎろうとした。その手を両手で軽くいなして、フィビアはマイネクの背後に回ろうとした。
 マイネクの視線は、フィビアの後ろの何かに、くぎづけになっていた。
 すかさず、マイネクの肩に着地して、そおっと、後ろを振り返る。

 淡い光のカタマリがある。遠くに見えた、あの妖魔の集団らしい。
 マイネクは、ぼうぜんとしていた。この世のものではないものを、見ているのかと思った。
 四十年間、王城魔法使いとして過ごしてきて、魔法空間の、いろいろな、不思議な出来事もこの目で見てきた。それでも、なお、信じられないことだった。
 光は、時にはボールのように、時にはロープのようになりながら、明滅し、あたりを、明るく、やわらかに照らした。すべての妖魔が、ひとつの踊りを踊っているかのように、上昇し、または下降し、旋回し、完璧なリズムで動く、光るオブジェを作り上げていた。
 オブジェの中心に、少女はいた。
 まるで、水浴びでもしてきたかのようにしとどに濡れ、露わにした上半身の、ほんのわずか、ふくらみかけた二つの胸に、長いつやのある髪が、ぴったりと張りついていた。
 黒い瞳は、飛び回る妖魔たちを映し、妖しげに、青白い光を放っていた。
 少女は無表情に、ぼおっと、マイネクたちを見ていた。
 やや、上目づかいに、不思議そうに。
「どうしたの? こんなところに……」
 それが少女の声だと、マイネクには一瞬、信じられなかった。声ははるか高く、天上より聞こえてきたような気がしたのだ。
「……き、君は……」
 マイネクの言葉は、口の中でこもってしまい、声にならなかった。身体が、震えているのがわかる。
「ここは、あぶないの、はやく、うごいたほうがいい」
 思いのほか、大人びた声だった。少し、くぐもったような感じが、色っぽささえ感じさせる。
 右手で、胸のあたりを隠し、少女は一歩ずつ、ゆっくりとマイネクの方へ近づいてきた。ゆったりとした麻のズボンに、素足だった。それでもこの森のなかで、傷ひとつついていなかった。
 何かに気づいたように、少女は足を止めた。
「妖魔たち、散って!」
 一声叫ぶと、光の群れは、瞬時に空へ向かい、四方八方へいくつもの青白い弧を描いて飛び去ってしまった。あっという間に、夕方の、深い、暗い森になる。
 マイネクは、警戒していた。その様子が、少女の瞳をくもらせる。崖の下には下りてきたのだが、五歩ほどの距離を取って、それ以上近づいてこようとはしなかった。
「わたし、こわくないよ……」
 ほんのわずかほほえみ、少女は言った。だが、目の端は不安げにゆがみ、鈍く光る瞳で、必死に何かを訴えかけていた。
「……この子よ、言ってた女の子って……」
 フィビアのささやき声は、マイネクを少し安心させた。
「君は……誰だ?」
「ミン。……ミンと呼ばれてたの」
「どうして、こんなところにいるんだ?」
「わたし、村にいられないから……」
 消え入りそうな、声だった。どんな表情を作ったらいいのか、どんな言葉をかけてあげればいいのか、マイネクにもわからなかった。それほど寂しげな様子。
 “なぜ、村にいられないのか”マイネクは、聞こうとして思いなおした。──いや、少女の心を傷つけてしまうかもしれない。
 しかし、ミンは、自分から話し始めた。まるで、心の中が見えているかのように。
「わたし、妖魔で人を傷つけたからと、村を追い出されたの。ほんとはそんなことないのに……」
 二歩、三歩近寄り、ミンはそっとマイネクの手を取った。
「けがしてるね」
 手の柔らかさに、マイネクは、心臓が高鳴るのを感じた。遙か遠い昔の、自分の初恋をほんの少し思い出した。
「なおしたげるよ……」
 待て、という間もなく、ミンは天を見上げ、呪文を唱えはじめた。
 まるで、歌うような数節の旋律……。
 マイネクは、ぼおっと、目の前が真っ白になるような気がした。自分にも、そう言えば若い頃があった……、そんな気分になっていた。まだ、魔法が楽しかった頃、けんめいに修行を積んだ日々のことを思い出しているうちに……。
 いつのまにか、痛みは完全になくなっていた。
 ──わしが、逆にこの子に、なぐさめられてるみたいじゃないか──マイネクはそう思った。
「古い呪文ね、どこで覚えたの?」
 いつもと変わらない、明るい様子で、フィビアはミンに尋ねた。
「古い、呪文なの?」
「そうよ。今の魔法使いは普通知らないわ」
「空を見るとね、わかるの。いろんな、コトとかモノが、言葉になったり音になったりしてるの」
「なに!?」
 思わず、マイネクは立ち上がる。
「きゃ……」
 驚いて、ミンは少しあとずさる。
 世界の全てのものには、別の側面がある。「動き」であるものが、魔法空間では音や絵になったりする。魔法理論の、初歩だ。しかし、教えられてもいない、修行の跡もない少女が、それに気づいているなんて、信じられないことだ。
「あ、ごめんな。……」
 マイネクは、ミンの腕を取って、立ち上がらせた。華奢な腕だな、と思ったが、無限の魔法の力さえ、そのなかにはこめられていた。マイネクには、それがはっきりとわかった。

 空は、いつの間にか、真紅になっている。
 森はいよいよ暗く、夜鳥がうつろな声で鳴き始めている。
「どうするかな、これから……」
 誰に言うとでもなく、マイネクはつぶやいた。
「ここから、動いたほうがよさそうだわ。夜は妖魔の時間だから」
「うむ、だが……」
 ちらりと、ミンの方を見る。
「わたしは……森がすみかだから……いいの」
 昔のことを思い出し、ぽそりと、ミンは答える。
「そんな、君は、こんな森なんかに、いつまでもいるものじゃない」
「でも……」
 ミンは、長いまつげを、そっと伏せた。うつむき、視線は定まっていなかった。
「わしに、ついてくるか?」
 自然と、言葉がマイネクの口からすべりでた。言った瞬間、──なぜ、何の抵抗もなしに、こんな事を言ってしまったんだ?──と思ったが、言ったことに後悔はしなかった。
 むしろ、これから出てくるだろう、目の前の少女に対するいろいろな責任が、頭の中をかけめぐった。
 ミンは、そっと、あたまを上げた。
「ついて、いくよ……」
 見つめる瞳の奥に、深い力が感じられる。
 視線を合わせた、マイネクの方が、わずかに、たじろぐほどの。
「おいで……」
 マイネクは、ミンを見ながら、二、三歩、後ろ向きに歩いた。
 ゆっくりと、ミンは歩き始めた。そっと、そっと、自分の進むべき道を確かめるかのように。
 振り向き、ミンに背中を見せて、マイネクはしっかりと歩き始めた。ちょっと離されたので、ミンは少しだけ小走りして追いついた。
 サクッ、サクッ、と枯れ葉を踏む音が響く。
 いつの間にか、月が出ている。九日ごとに満ち欠けする月も、今宵はほとんど満月だ。
 森が、青白い、月の光に満たされる。
 ミンは、おぼろな、橙色の光に包まれていた。魔法の力が、にじみでて、光になっているのだ。妖精には多いが、人族でそれだけの魔法の力を感じさせる者は、伝説の中にしかいない。
 ──この子は、おそらく、……いや、絶対、すばらしい魔法使いになる──マイネクの確信だった。
 この、あまりにも才能豊かな子を、自分自身の手で育てることができる。期待感に、マイネクの心はうちふるえた。──王城などは早く捨て、ケンネの町でこの子を育てるんだ──
 白色の、魔法の明かりを持って、マイネクが先導する。きちんと、ぴったりと、ミンがついてくる。
「……ミン……」
「……なあに?」
「君は、魔法を学ぶつもりはないかな?」
「……おもしろいの?」
「とても、おもしろいぞ。君ぐらいの才能があれば、すぐに、どんなことだってできるようになる」
「たとえば?」
「たとえば……って、ええと……」
 ミンのことばまわしは、いたずら好きな子供のものだった。マイネクはあっさりそれにひっかかってしまった。
「きれいな、絵や、音楽や、そんなものが、たくさん、隠されてるのがわかるわ」
 フィビアが助け船を出す。
「おもしろそうね」
「そうよ、きちんと、魔法やってみたらいいわ、このおじいさんに付いてね」
「こら、フィビア、わしはまだじいさんじゃないぞ」
 クスッ。……ミンは声をころして笑った。普通の、村の少女のように明るく。
 森の生活も、ミンから、何も奪いはしなかったのだ。言葉も、心も、明るい笑いさえも。
 少女ゆえの、無邪気さに、ミンは救われていた。その奥は繊細で、華奢で、ほんとは強靱さなんてほとんどないのに……。
 ミンとマイネクは、ひたすら歩いた。大きな月が、頭上に輝く頃、ようやく三人は、鉱山町にたどりついた。


夜の底は柔らかな幻〜第1章