夜の底は柔らかな幻〜第10章

Phase 10 "shizukani madoo akeyou"(496/Autumn)

 空が曇りだし、冷えこんだその夜、魔法使いたちはサイアルの家の中に集まっていた。
 寝台には、きつく包帯をまかれたサイアルが、寝かされていた。気を失ったままで、弱々しい呼吸を続けていた。頑健なからだが、今はただ彼の負担にしかなっていない。
 ライサが、寝台の横で両手を額の前に組み、心を集中させて魔法の力を探っている。力の補助になる魔法陣が床に白墨で描かれ、部屋はろうそくの光に満たされている。
 大きく息をついで、ライサはゆっくりと、頭を左右に振った。
「……だめだわ……。私ではこれが精一杯……」
 彼女の目の下には、くっきりと隈が刻まれていた。夕方からずっと、夜遅い今まで、呪文を探しつづけていたのだから。
「……気にするな……、僕が代わるよ」
 そう言った、ソーウェの顔にもはっきりと疲労の色が浮かんでいた。
「……寿命じゃないんだ。ケガや病気なら魔法でも直せるはずだ」
 口の中で、つぶやいてみた。だが、傷はあまりにも重く、空間の力を彼に流し込んでみても、命をかろうじて引き延ばす、それぐらいのことしかできなかった。
「ミンは、どうしてるの?」
 マイネクは、不用意なライサの言葉をとがめるようににらみつけた。
「……アキを看てる」
「……あの子なら、なんとかなるかも……」
「だめだ! ミンは今は魔法を使わせてはいけない! ライサ、君もわかっているだろう?」
 ライサは、椅子にもたれかかり、顔の前に落ちてきたやつれ気味の髪を、だるそうに背中の方へかきあげた。
「アキの、せいなんでしょ?」
「……そんな言い方をしてどうするのだ。仕方のないことではないか」
 疲れと、無力感からか、皆少しだけいらだっていた。
 マイネクも、心の中では、──ミンならなんとかなるかも……──と思っていた。しかし、直るかどうかわからないサイアルのために、アキの命を危険にさらすようなことはしたくなかった。

 アキは、ミンが看ていた。
 二人の部屋で、いつも身を寄せ合って眠っているベッドの上にアキだけを寝かせて、動かないなめらかな横顔をじいっと見つめていた。
 だいだい色のランプの光がゆらめくたびに、影の形がおぼろに変わる。
 まるで、目の前から消えてなくなるかのように。
 不安が胸をしめつける。だが、自分ではどうしようもない。ただ運命を天にまかせるだけ。
 どうして、こんなことになったんだろう。考えてもしょうがないことを、頭の中でめぐらせる。朝からの、はげしい、いくつもの光景がかわるがわる浮かび上がる。
 夢を見ていたみたい。だけど、いくつもの前兆が、かさなりあって一度に現実になっただけ。
 何もかもが、恐ろしかった。けんめいに、水の結界の出口を探したこと。ガルフがこときれる瞬間、いなずまのように、全身に走った、凍るような衝撃。……エルムの哀しみ。そして、自分が魔法で何ができるか、ということ。
 今、生きているのが不思議だった。何かが違えば、魔法使いたち全員が、一度に消えてしまっていただろう。その想像が、余計に恐怖をあおりたてる。
 ミンは、アキの頬に、そっと手を当てた。
 暖かかった。
 もうひとつの手を、さらに重ねる。その上に、唇を寄せる。
「……死んじゃうの……?」
 ミンは、小さな鈴の音のような、かすかな声を、脳裏に聞いた。
「死んじゃう……?」
 無意識のつぶやき。口に出して言ったのか、それとも心の中だけで言ったのか、自分でもわからない。
「みんな……死んじゃうの……?」
 アキが泣いていた。くちもとを震わすことなく、ミンの心にだけ届く声をあげて。
「……いかないで……置いてイカナイデ……。ここにはなんにもないの……ナンニモ…………」
 きゅっと、ミンはまぶたを閉じた。聞いているだけで、胸がつまる。くちびるを噛み込み、自分の心を落ちつかせ、溶かしていく。
 アキの心と、触れ合わすために。
 アキと出会って、わずか一年間。その記憶が、ミンの中にいくつも蘇ってくる。

 初めの秋。はじめて魔法をおしえた日のこと。
 まだ、空気が紺色に染まっている、明けきらぬ朝、二人しとねの上に座って戯れに魔法を動かしていた。
 ミンは、アキの細い左腕を取り、触れ合った肌を通して言葉を送った。
『……アキ、アキ? 聞こえる……?』
 しばらく、アキはじっと困ったような表情を見せていたが、とつぜん瞳を輝かせ、ぱっと明るく笑った。
「……聞こえた! ねえさまの声だ!」
 あたたかい微笑みを、ミンはアキへ向けた。
 アキは目を細め、開いている右腕のたおやかな指をせいいっぱい伸ばして、ミンの腕をそっとつかんだ。
 ──どうしたの?──首をかしげるミンの心に、かすかなささやきが響いてくる。
『……ミンねえさま? 聞こえる……?』
 甘え、媚びるかのように見上げる、深いとびいろの視線に、ミンの身体に浮き上がるみたいな、じんとした痺れが走った。
 目を閉じる。肌をぴりぴりと走る恍惚が、波の引くように全身を下りていく。
『うん、聞こえるよ……アキ……』
 魔法の言葉で、応えを返す。
『……ミンねえさま……?』
『……なあに?』
『うれしい。……うれしいの……』
『うん、私もとてもうれしい……』
 いつまでも、ずっと、一つの言葉を送りあう。

 冬、ささやかな新年の祭り。
 ミンたちはマイネクたちと一緒に、同じ建物に住む人で集まって、正装で着飾って、自分たちで準備した細々としたいろんな料理を、一斉に広げた。
 この日のために仕込んだ酒を、いちばん年長のマイネクから、年少のアキまで、少しずつまわしていく。
 近くの子供たちも集まり、「はねつき」が始まってにぎやかになったころ、サイアルが一人で年始参りにやってきた。
 あちこちで呼ばれたのか、赤ら顔をさらに真っ赤にして、大声で笑い、明るく酔っていた。
「おお、ミン、それにアキか!」
「おめでとうございます。サイアル先生」
「ああ、そうだ。新年おめでとう。君らは、幾つになったんだっけな?」
「私が十五、……アキは?」
 アキは、初めて着る、上品なワンピースとスカーフ、それにコートを、汚さないようにと、おとなしくミンの後ろをついてきていた。
「……あたしは、十一になりました」
「おお、そうか。大きくなったな。ほら、これは俺からだ」
 ミンに両手で軽く持てるくらいの木箱、アキにやわらかなビロード布の包みを手渡した。
「ありがとう。サイアル先生」
 微笑みを向け、アキは手早く包みを広げた。柘植で作られ、ひかえ目に彩色されたカチューシャが現れた。
 たのしそうに、やわらかな髪を押さえてみる。
「……ミンねえさまのは?……」
 にっこり笑って、小気味よい感触で、ふたを開ける。瞬間、どきりと心臓が縮む。
 前にもらったものと、ほとんど変わらない手鏡が、鏡面をおもてにして入っている。
「これ……」
 何か言おうとして、戸惑ってしまったミンの手から、アキはすばやく手鏡をかすめ取った。
「ねえさま、貸してね」
 愛くるしい声が、ミンの心を安心させる。アキは、小難しい顔をしながら、カチューシャの位置を微妙に直している。
 あの、手鏡の事件からまだ一月ほどしか経っていない。
 ──私は、ずっと鏡を見るのが嫌なのに、この子は、もうなんのわだかまりも残してないんだ……。アキは、ほんとは、私よりずっと強いのかもしれない──

 日差しの強かった、ある春の午後のこと。
 その日は休みの日で、二人はなんとなく、ライサのところへ遊びに行っていた。
 ライサは、ソーウェと二人きりで、投げ矢の遊びに興じていた。
 十歩ほどはなれた所に、人の顔ぐらいの大きさの正方形の板を置いていた。板は縦横四つずつ、十六の区切りに分かれ、一から十六までの数字が魔方陣になるようにに書いてあった。
 太い針に、薄板の羽根をつけた投げ矢を、ライサは手首をうまく効かせて、シュッと投げた。
 十六をわずかに逸れ、二に突き立つ。
「どうも、上手くいかないわね」
 短い、くせ毛を軽くかきあげ、つまらなそうに言う。
「やる?」
 矢を受け取ったのは、アキの方だった。
 ライサの立っていたところの一歩横に立ち、一つ深呼吸して精神を深く落ち着かせていく。
 ためらうことなく、投げられた矢は十五と十四の境目の線の上にきれいに刺さった。
「これは……二十九点だね」
 ソーウェの声に、アキは顔をほころばせた。
「うまいね、すごいよ」
 ミンは、ただ目をまるくするだけ。
 うわずる声で、アキは得意そうに話す。
「うん、昔よくやってたのよ。まだ、ヨツンフの港にいたころ」
「え?」
「ミルチャっていう、少しガラの悪いお兄さんに教えてもらってたのよ。魔法も最初はその人から習ったんだよ」
「そうなんだ……」
 あまり見られない、アキのはしゃぎぶりに、ミンは意外さを感じていた。──アキがこんなに明るく昔のことを話すなんて……。もう過去のことは癒されているんだろうか……──

 ひとつひとつの思い出の、シークエンス。流れを見て、初めてわかること。
 ──アキ……、君は、少しずつ、成長しているね。私なんかより、ずっと……。逃げずに、心の底と戦っている……──
 目の前に、固く目を閉ざしたアキが横たわっている。──私がこの子を守っているつもりだったのに、いつのまにかこの子に救われていたね……──
 胸に耳をあてて心臓の音を聞く。
 とん、とん、と、魂の躍動が伝わる。ほっと安心して、ちょっとだけ幸福な気分になり、次の瞬間に、サイアルたちのことを忘れていた自分に気づく。
 幸せ? この子といるのはとても気持ちいいのに……魔法のことを考えると、一緒にはいれない。
 魔法なんか捨てて、ずっとここにいたい。そうしてもいいかもしれない……。でも、私は「何かしないと」の思いに応えていない。私はこのままでは、永遠に私が見えない……。
 再び、ミンはアキの肌に頬を寄せた。
 ランプの光がまたたき、だいだい、青、緑……七色に輝く。暗闇の中に、淡いボールが浮かび出る。
 乳白の霧がただよい、まぶしいほどに部屋中を流れる。
「ここは、アキの夢の中だ……」
 ミンの言葉は、声に出したのか、心でつぶやいたのか、あいまいだった。
「……そうよ……」
 幾重にもこだまがかかったようにくぐもって、アキの声が響く。
「……ミン、……どうしたの? わたしはだいじょうぶ……」
「アキ?……」
 突然のことに、ミンは寝台に手をつき、振り返った。声は背後から聞こえてきたような気がしたのだ。
「……わたしのことなら、……いいの。ミンはもっと先へ行かなきゃね…………ねえさま……」
「そんな! アキ! アキはとても大事なんだから! とても……」
 空間に、くすくす笑いが、飛び交う。何人ものアキが、まわりじゅうで笑っているみたい。
「……だから、……いいの。わたしはいいの。だいじょうぶ……」
 見る間に、霧はすうっと光を失い、ボールは溶けるように暗闇へと消え去る。
 気がつくと、ランプが灯っているだけの、いつもの暗い一室に戻っている。
「アキ……」
 なにもない空間をぼおっと見つめ、ミンは呆けたような声で、つぶやいた。

 身体を、ぞくっとする感触が、突き抜けていった。
 朝、広場で、あのとき感じた衝撃と同じもの。……人が死んだ瞬間の……。
 身近な、やさしい、あたたかい、……でも一瞬で消え去る感覚……。
 サイアルの、波動。
 ……ミンは立ち上がった。何をするでなしに、険しい表情のまま、立ちつくす。視線は、無意識のうちに、サイアルのいた、彼の家の方を向いている。
「……サイアル……先生……」
 いつのまにか、呼吸が荒くなっている。鼓動が、全身ではっきりとわかる。
 瞳だけ動かして、アキの表情を見る。……人形のように、まったくうごかない、端正な白い肌……。
 そっとドアを開け、ミンは外へ出た。ゆっくりと閉めたはずのドアは、ばたんと音を立てた。
 かがり火の、ほんのわずかな明かりでは、くつを探すのももどかしく、ミンは素足のまま石段へと飛びだした。
 暗闇に慣れた目でも、かすかにしか見えない陰影を頼りに、急ぎ足でサイアルの家を目指す。
 月のない、満天の星空。
 北の空に、一年中沈むことのない、“カゾリフ”が輝く。
 先生の家に行くときは、いつも使っていた裏の扉をノックする。反応はない。そっと把手に手を掛けると、扉は音も立てずに開く。
 廊下に、光の線がすっと走っている。いつも先生がいた部屋から、オレンジの明かりがもれている。
 軋む音をかすかに立てながら、ミンは扉に顔を寄せて、光の中をのぞきこんだ。……ライサ、リドネの肩が、力なくうなだれている。
 そのまま、重みをかけて、ドアを押し開いた。視線が、ミンに集められる。
 ちらりと見上げただけの、マイネクの瞳の悲しさに、ミンはサイアルの永眠を悟った。
 ──やはり、先生は、……死んでしまったんだ……──
 思わず、両手を重ね合わすように、顔をおおう。目の奥が、ツンと、熱く、痛くしびれる。
「……そうか、……君も感じたのか……」
 低く、しぼりだすようなマイネクの声。
 サイアルの一番弟子だったソーウェは、椅子にすわり、床を見つめたまま、何も言おうとしない。
 空気が、暗く、よどんでいる。
 ひとつぶの涙が、指を濡らす。きゅっと目を閉じると、一筋の流れをほほに感じる。
 一歩、二歩と、ミンはゆっくりと近づき、寝台に眠るサイアルの側に立った。
 顔に血色はない。閉ざされたまぶたは、開く気配もない。まるで人形のよう。そう、魂のない身体は、ただの人形……。
 くちもとが、わずかに微笑んでいるように見える。──先生は、どんな思いで、旅立っていったのだろう……──。サイアルの妻と子が、せきこむように泣いている。その声に胸がきゅっとなる。
 手の甲で涙をぬぐい、目を閉じ、天をあおぐように胸をそらせ、心の中で叫ぶ。
 ──先生……ありがとう……ごめんなさい……──
 どうしても、後悔が残る。
 ──みんなが、助かる道があったかもしれない。私は、私にできることをしなかったかもしれない……──
 目をつむったまま、顔を下ろす。
ゆっくりとした、マイネクの言葉を聞く。
「……ミン、君は、アキのもとについていてやりなさい……」
 ミンは、つとめて何も考えないように、軽くうなずいただけで、部屋中から視線をそらすように顔をそむけ、足早に、去ろうとした。
 背後から、聞いたこともない、マイネクの太い声が、聞こえてきた。
「……サイアル。君、今は安らかに。
   天へと至り、溶け込み、やがて帰るその日まで、
   思い出の残るよう。忘れることのないよう。
   魂、今はただ、安らかんことを……」
 ──魔法使いの、野辺の歌だ──。ミンは、その歌の歌詞だけを知っていた。死者の魂は、魔法の国で忘却の河を渡り、やがて地へ戻ってくるのだと。そのとき、彼が、かつて生きた記憶を、魂の奥底におぼろにでも秘めていたら、彼は幸せが約束されるのだと……。
 ──私にも、過去生きた記憶があるのだろうか……。それを思い出せば、幸せになれるんだろうか……──
 ミンは、とりとめのない想像をめぐらせた。目の前の悲しさから逃げるように。
 嗚咽の声は、いっそう哀れみを帯び、悲痛の思いは、深く、重く、部屋中によどんでいた。

 翌日の昼、テンヤンの山裾から下りてくる、重い霧に包まれ、サイアルの葬儀は行われた。
 彼の家のいちばん広い部屋に祭壇が作られ、花に飾られ、白布で覆われた柩が、安置された。心を落ち着かせる、香がたきしめられ、ろうそくのともしびがつけられる。
 サイアルの弟子だったソーウェが、祭祀として、師匠のために祈りを捧げる。
 白装束を身にまとい、目を閉じ、微動だにせず、一心に魔法の言葉を続ける。──すべて、魂は、空へ還る。やがて、再び生まれる、その日まで。人として、生を受けし者は、かならず、死を迎える。自然のことわりなるから……。──
 普段明るい、彼の面影はない。
 白の喪服をつけた人が、額を合わせるように集まり、故人の思い出を語り合っては、涙にむせた。

 ミンは葬儀の席にはつかなかった。ミンは、いまだに目を覚まさない、アキの側にいるように言われていたのだ。
 開けた窓から入ってきた、霧のつめたさに、ミンは目を覚ました。身体が少し冷えて、昨日着ていたままの服は、しっとりと重くなっていた。
 額を押さえ、目を瞬かせる。──奇妙な夢を見ていた──。やけに鮮明で、とても内容の深い……。
 ──どこかの小さな広場で、私は天を見上げていた。
  「私は行かないとならないの。ごめんなさい……」
   私を愛している誰かが、必死に叫んでいた。
  「……どうして? どうしてあたしを置いていくの!?」
  「でも、行かないと……私のせいなんだから!」
   深い霧が、広場を満たしていた。──
 なぜ、こんな夢を見たんだろう。──「愛している者と、別れないとならない夢」。夢の誰かが、アキの姿と重なる。
 それにしても、……こんなときは、こんな夢を見るものなのかな……。──寝台にもたれかかっていた上体を起こす。あまり眠っていないはずなのに、十分な睡眠のあとのように、頭は晴れていた。
 アキは、そろえた両手をまくらにして、横むきになって眠っていた。──昨夜は、あおむけになっていたはず……。──わずかな動きにも回復の兆しが感じられ、ミンは少し安堵した。
 かすかな、雨の音を聞いて、ミンは窓の側へ行った。
 霧は、とてもこまかな、雨になっていた。さらさらと、優しげな雨声がする。
 雨にけむる、向こうに、白服の人が列を作っていた。──ああ、サイアル先生の葬儀をしているんだな……──。またひどく、悲しくなるのを、奥歯をかみしめて、こらえた。
 少しうるんだ目で、遠くを見つめる。坂の下、広場の向こうに続く道。ずっと左へ行けば、シディアの港に出て、イグゼムの王城へとつながっている。右へ行けば、北のイナム国へと通じる。
 霧の向こうへと想像の翼を飛ばす。
 島から、海をわたると、すぐ大陸がある。大陸の山脈をひとつ越えると、にぎやかな大都市がある。大都市のむこうには、はるかな、世界が広がっている。
 妖精たちや、船乗りたちから聞いた、「世界」の話を、ミンはとりとめもなく思い出していた。

 窓の外から目をはなし、アキの方へ視線を向ける。
 ベッドの上で、一年でだいぶ伸びた栗色の髪の毛が、わずかにゆらめいた。
 ──……あら、……目を覚ましたんだ──
 ミンは、アキが起きるようすを、ぼんやり見つめていた。
 ゆっくりと、うつぶせに身体をひねり、首だけを起こす。まくらに置いた両手をぴんとのばして、思い切り伸びをして肩を揺する。
 重くかたまっていたまぶたを、しばたたいて開く。
 アキは、とまどうように、少しだけ辺りを見回し、ミンと視線が合って、ほっとためいきをついた。
「……ミン、ねえさま、あたし……」
 ミンはあたたかな笑みで、アキの言葉をおしとめた。
「アキ、……起きたんだね。戦いのときからずっと眠っていたんだよ」
「そうなの?」
 アキはそっと自分の胸元に手を当てた。布団から這い出し、両足をそろえてベッドに座る。
「あたし、……どのくらい、眠ってたの?」
「一日と、少しだよ。今はちょうど昼だね……」
 両方のひじを、ふとももにつけるようにして、アキは身を乗り出してミンの瞳をのぞきこむ。
 ミンは窓枠から腰を上げて、アキのそばに座った。
「ねえさま……、あたし不思議な夢を見てたの……」
「どんな夢なの?」
「……サイアル先生が夢の中に出てきたの。ずっと暗闇なんだけど、光の道路がすうっと通っていて、あたしが歩いていたら、先生が早足で追い越していったのよ。
 ……先生はそのとき、あたしにこう言ったわ。
『アキ、君は帰りなさい』って」
「サイアル先生、どんな感じだった?」
「……いつものように、元気よく、笑ってたわ。あたしの頭をちょっとだけ撫でて、
『帰って、好きなことをしなさい』と言ってた。
 あたしが振り向いたとき、もう先生はいなかった……」
「『好きなことを……』」
 夢の中のサイアルの言葉を、すべて繰り返そうとして、ミンは言葉を詰まらせた。
 不意に、押さえていたものが、こぼれおちる。
「……ねえさま、……どうしたの?」
 腕で、ぎゅっと両目を押さえて、アキにすがるようにもたれかかってしまう。
「アキ、……その人、……ほんとにサイアル先生だよ。……だって先生はもう死んでしまったのだもの、もう……」
 アキは、ベッドから下り、床にひざを落とし、こまやかな絹のような指先で、静かに、なめらかなミンの髪を包んだ。
「うん、あたしもそんな気がしてたわ。……光の道をね、ずっと遠くまで行ってしまうんだもの、先生……」
 きらりと、しずくが一粒、床を濡らす。

 二人は白の服に着替え、雨に打たれるにまかせ、重い足取りでゆるやかな階段を下りていった。
 四つ辻に、集まっていた人たちは、ミンとアキに気づき、いっせいに視線を向けた。二人が人の群れに割って入ると、ざわざわとさざめきが起こった。
 焼香の列に並ぶと、嫌でもいろんな話が耳に入ってきた。
「……戦い、すごかったらしいぜ……。ミンさまがみんなを守ったんだって」
「エルムというのを倒したのも、ミンさまらしい……」
 坑夫たちの表情は、とむらいの場には似合わないほど、晴れやかに感じられる。
 ──そういうことに、なるのかな……──
 まるで他人事のように、ミンは聞いていた。
「やっぱり、ミンはすばらしい魔法使いだよ」
 誰かが、そう言っていた。
 ──それだけは、違うね。……私はまだ私自身さえわかってないんだから──
 マイネクの以前言っていたことを思い出す。「自分の道を探すことが、魔法使いにとっていちばん大切なこと」。──私は、それ以前の自分がわかる、ということさえ満足にできていない……──
 葬列の受付を、ライサがしていた。おそらく、サイアルには家族の他に身内がいなかったので、手伝っているのだろう。
「ミン、……」
 名前を書こうとしたときに、呼び止められた。
「なに? ライサさん」
「マイネク先生が、話があるそうよ。後で行った方がいいわよ」
「うん、私も話があるんだ……」
 ミンは、毅然と、祭壇の花束を見つめていた。
 ──きれいな、横顔をしているのね……──
 ぼんやりと、ライサはそんなことを考えていた。

 アキ一人を先に帰し、ミンは霧雨の中を町役場へと歩いた。湿気が髪を重たくするのを、ここちよいと感じながら。
 ライサに言われたように、集合所へと向かう。
 いつも座っていた、いちばん窓に近いいすにマイネクは腰かけ、よろい戸を開け、雨がひさしに集まって、水滴になって落ちていくのをじっと眺めていた。
 ──マイネク先生……こんなに歳とっていたかな……──
 さみしい背中に、ミンはそう思った。
「ああ、来たのか、ミン」
 マイネクの声は意外にも明るく、顔色も多少良くなったかのように見えた。
「ええ、……話したいことがあるの」
「……どうした? 君の方からも話があるのか?」
 こくりと、ちいさくうなずき、ミンは勧められるままにテーブルについた。
「いったい、何の話かな?」
 ミンは黙って、無表情な視線だけで、自分の真剣さがマイネクに伝わるのを待った。
 見つめ合った、マイネクの瞳の色が、自分と同じ厳しさになるのを見て、ゆっくりと言葉をつくる。
「先生……。私、この町を出ようと思う」
 ……マイネクは、息をのんだ。
 ──いつかは来ると思っていた言葉。だが、それが「今」になると、早すぎると感じてしまう。
「……そうか……アキには話したのか?」
「ううん、まだ……。だけど、アキは許してくれると思う」
 目を閉じ、自分を納得させるかのように、マイネクは微妙になんども、うなずいていた。
「うん、……わかった。そういうことなら、わしもいろいろと手配をしておこう。だけど、……魔法使いの認定式まではここにいなさい」
「……認定式?」
「君の、ウィラ格認定だよ。もう一人前として認めてもいい、とみんなが一致して決めたのだ。これから、どこかへ行くのなら、役にたつこともあるだろう」
 マイネクは、明るい表情を取り戻した。
「先生、……ありがとう」
 自分の時が、音をたててゆっくり動き始める。……そんな予感がした。
 胸の奥で、誰かが叫んでいる。
 “何かをしなければ”……“どこかへ行かなければ”……
 その思いの、答えはどこにあるのだろうか……。

 翌朝、野辺送りをすませ、サイアルを自然へ帰すと、皆の悲しみもかなり薄れ、明るい談笑も聞かれるようになった。
 いくさに出なかった農夫たち、いや、兵士として出ていった坑夫たちまで、戦いには「勝った」と思っていた。追い打ちができなかったとはいえ、王城いちばんの剣士と、魔法使いを倒したのだ。
 複雑な表情をしているのは、魔法使いたちだけ。にぎやかな雰囲気の中で、どうしても沈んでしまう。
 雨は止んで、秋の天高い青空が、気の遠くなるほど広がっていた。まだ濡れた地面をぱしゃぱしゃと音を立てて、ミンはあてもなく町中を歩いていた。
 これからのことを考えながら。一人で。
 昨夜のうちには、アキには言い出せなかった。
 ──アキには何て言おう、……この町を出るにしても、いったいどこへ行くことになるんだろう……──
 これから必ずやってくる、いくつもの瞬間を思い描く。
 田畑の中に、ぽつんと立てられた土蔵の前を通る。虫干しの樟脳の香りが、鼻の奥をつんと刺激する。きちんとぱりっとたたまれた、紺色や茜色の衣装が、数を数えながら取り出されている。
「おや、ミンさん、こんにちは」
 あいさつをしてきたのは、同じ建物に住んでいるフェーネアおばさんだった。
「こんにちは、フェーネアさん。……今年も、収穫の祭り、するの?」
「何言ってるの。……今年はあなたが主役よ。そんな暗くなっててどうすんのよ」
「……え……? 何のこと?」
「あら? ほんとに知らないのね。アーガスさんたちが言ってたんだけどね、『今度はカゾリフ役をミンにやらせてみたらどうだ』って」
「……カゾリフ?」
 五百年ほど前の、島を拓いたといわれる魔法使い。しかし、ミンは伝説をひととおり聞いたことがある程度だった。
「そうよ。いちばんきれいな服が着れる役よ。女の子の魔法使いは、みんな一度はやりたがるんだけどなあ」
「……そうなんだ」
「ミンさん、どうする? 今、衣装見てみる?」
「いや、いいよ。ありがとう」
 まだ、心が曇っていて、関心がわかず、ミンは決まり悪く足早にその場を離れていった。

 数日後、マナの町から一通の手紙が届けられた。
 書いたのは、ファイ。エルムの娘。そして、宛て名はミンになっていた。
 周囲の明るい騒がしさから逃げるように閉じこもった、自分とアキの部屋で、ていねいに封筒を開けてみる。
 ひともじずつがはっきりしていて、いつか見たエルムの筆跡に、とてもよく似ていた。
『 私の、両親は、亡くなりました。
 私は、王城の方へ帰ります。生きていくことはできます。心配しないで。』
 たったこれだけの手紙。
 ファイがケンネの町に来たとき、ほんのわずかだけ表情をほころばせた。その瞬間が思い出された。
 気にかかるらしく、アキが背中の方からのぞきこんでくる。
「……ねえさま、何の手紙なの?」
「ファイからの手紙だよ。覚えてる?」
「うん……」
 アキは、重みをミンの肩にかけつつ、文字を目で追っていった。
 ミンはおぼろに思う。少ない文字数のなかに、どれだけの想いがこめられているのだろう。どんな気持ちで、ファイはこれを書いたのだろう。
 慎重に選ばれた言葉が、胸をつく。
 いつまでも、何度も、くりかえして読んでみる。
 ──あのとき、ファイは視線だけで私に応えてくれた。……こんどはほんの少しの言葉だけで、私に強さを教えてくれる……──
「アキ……」
「なあに? ねえさま」
 高い、よどまずに響くきれいな声に、ミンは気おくれした。
「……いや、ごめん、なんでもないよ……」
 言ってしまった瞬間、後悔する。
 わずかに、アキの瞳が、いぶかしげに曇る。


夜の底は柔らかな幻〜第10章