夜の底は柔らかな幻〜第2章

Phase 2 "psi-trailing"(495/Spring)

 王城の港には、久し振りの外国船が着いていて、臨時の市が立っていた。
 商売に関する情報は、妖精の手によって、またたくまに島中に広がっていく。今日も噂を聞き伝えて、かなりの数の商人が港に集まってきていた。
 装飾品や香水など、豪族相手の商品は、商館で、冷静に取引されている。その裏では、麻薬や、得体のしれない魔法書などの、おもてでは取引できない品物が動いている。こちらの方も豪族相手だ。
 料亭の二階にある、特別室で、裏取引は行われていた。もう、夕方の暗くなりだす時間だ。
 貴族たちの群れに、そそくさと、小柄な男が近づいてきて、持ち込んだ品物の説明をはじめた。
「……この魔法書は、伝説の魔法使いカゾリフが、まだ大陸にいた頃に書き上げた物で、内容は、黄金の作製法から人を呪い殺す法まで及んでおります。カゾリフには縁深い島のみなさま、どうかご覧になってくださいませんか?」
 貴族の一人が、怒りをこらえきれぬ感で、さっと立ち上がった。
「おい! 下郎! お前は我々をからかいにきたのか!? カゾリフ様は島の祖だぞ。そんないかがわしい魔法書など書くはずがないではないかっ!」
「そうだ! つくならもう少しましな嘘をつけ!」
 やや騒然としてきた会を、恰幅のいい、脂性の中年男が静めた。
「おっと、みなさん、お静かにねがいます」
 彼は、デライといい、この会を主催している。
「とにかく、一度、ウチの魔法使いに鑑定させてみましょう。……おい、エヴェート、これを見てくれ」
 デライより、少し若い、堅実そうな印象の男が進み出た。
「……んー、……どうにもなりませんな、これは」
 商人の顔が、さっと青ざめる。
 デライの傍らにいた、側近のミルチャが、デライにそっと耳打ちした。
「こりゃ、たぶん、ルーストン国の闇市で手に入れた品ですぜ」
 ミルチャは、大陸で盗賊の頭をしていた経験もある。まだ三十前の若さながら、鑑識眼と視野の広さで、デライに買われている。
「ルーストンの、闇市か……」
 とたんに、デライの顔色が変わった。
「こいつを、捕らえよ!」
「ええっ!?」
 会に居合わせた、ミルチャ以外の人は、一様に驚いた。捕らえるということは、後で、秘密裏に、殺してしまうということなのだ。
 こんな裏商売に、贋物事件なんていくらでもある。ふだんなら、厳重注意するか、あるいはたたき出すだけで済ませるところだ。
「こいつは、カゾリフ様の名前を勝手に使い、名を貶めました。品行も悪く、不穏な人物です。皆様の安全を考えますと、殺害するのが適当かと存じます」
 あっけに取られている人々の前で、デライはしゃあしゃあと言ってのけた。
 彼は、昔、ルーストンの闇市で手ひどい詐欺を受け、大損したことがある。今それを思い出して、むかっと来て、怒りを何の関係もないただの商人にぶつけてしまっただけなのだ。
 デライの人格は、およそこの程度のものだった。
 あわれにも、闇商人は、デライの手下に連れられていった。

 あたりがすっかり暗くなる頃、商人たちは帰っていき、デライによってささやかな宴が催された。宴のあと、地方の豪族や、貴族の臣下たち、有力な裏商人などは帰ってしまい、後には王城近くの貴族連中だけが残った。
 彼らに言わせると、今までの時間は余興で、これからが真の裏取引の時間なのである。
「さて、これから二次会に移りましょう」
 デライのこのセリフで、これからの行動が始まる。デライを含め、六人である。
 今いる料亭のふすまを開け、物を動かして床板をはがすと、隠し階段が現れる。階段は地下まで続いていて、各自が提灯を手にして下りていく。広めに、ていねいに作られた地下道を、少しばかり歩いていくと、別の建物の中に出る。
 料亭の広い敷地の裏は、娼家になっている。料亭も娼家も、デライの経営によるものだ。
 表口の方では、外国の船員たちが、つかのまの休息と快楽に耽っていることだろう。だが、うるさく、本能的に過ぎる、彼らの楽しみ方は、ここにいる貴族たちにはいささかふさわしくないようだ。
 表の喧騒が伝わってこない庭の片隅に、小さく、表向きは質素ながらも、中は豪華に飾られた、上流階級専用の建物がある。地下道はここにつながっていて、一行はこの中に出てきたのである。
 彼ら同士の話題も、やや猥雑になって、下世話な感じすらした。
「アンダ殿。今日は父子揃ってのお出でですかな?」
「アルケス殿。息子に教えることは、何も学問や武芸だけではありませんからね」
「ははは、そうかもしれん。だが、息子さんには、早く婚礼の相手をみつけてやる方が先ではないのかね?」
「それは心配ありませんね。息子は大陸で立派に娘を見つけてきましたからね。器量も家柄も申し分なしのね」
「……うらやましい話だ。だが、今日の息子さんを、その娘さんに見せたら、なんと言うかね?」
「まずいですがね、あなたも奥さんにバレたらまずいでしょ」
「アルケス殿の奥様は、……お強いから……」
 やや下卑た笑いが、沸き起こる。
 一同の先頭に立つデライは、軋む木の引き戸を開けた。
 中は、ろうそくとランプで明々と照らされ、光に、美しく着飾った女たちが浮かび上がった。十、二三人はいるだろうか。
 女たちは、無言で、丁寧に、礼をした。
「……なかなかの上玉ぞろいだね……」
「……何でも、イェルトあたりの、戦乱の流れだとか……」
「ほう、……戦乱とはねえ……」
 貴族たちの、声を殺した会話が続いていた。
「おや?」
 一人が、部屋の隅に、立って、ぼおっとこちらを見ている少女がいるのに気づいた。
 まだ、歳は十ぐらいだろう。栗色の波うつ髪が、ろうそくの光を受けて輝いている。線が細く、まだ開く前のつぼみのような瑞々しさを感じさせる。
「デライ……あの子は?」
 客たちの目が、さっと少女に集中した。その雰囲気を感じとったのか、少女はすばやく、裏口の戸を開けて部屋の外に出てしまった。
 デライは、一瞬、動揺を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「気にしないでよろしいです。それよりも、早く中へどうぞ」
 これから、女たちの品定めが始まるのだ。女たちは、妾になる者もいれば、単に下女として連れ出され、遊ばれる者もいる。ただ一夜の快楽の果てに、殺されてしまう者さえもいるのだ。

 鬼のような、男たちの狂態、夜中続く乱痴気騒ぎを、少女はずっと壁をへだてて聞いていた。
 ここ数日、朝に眠り、夕に起き出す生活が続いていた。どうせ、いつ眠ってもいいのだ。適当に寝起きして、ときどき、料亭か娼家に顔を出して、食べる物をもらう。生まれたときから、それが当たり前だった。
 少女は“アキ・ヨツンフ”と呼ばれていた。ヨツンフ港のアキ、という感じだ。
 アキは、聡明で、見る者をはっとさせるほどの鋭さがあった。めったに笑わず、怒らず、感情を露わにすることはなかった。機嫌のいいとき、たまに微笑むが、大人の女が鼻で笑うようで、少女にはあまり似つかわしくなかった。
 デライは、アキのことを「娘」と呼ぶこともあったが、アキは、デライが本当の父親ではないことを気づきかけていた。「普通の父親」がどんなものか、わずかに知っていて、それがデライの印象とかけはなれたものであると感じていたから。
 ……女と男の、あられもない声が、壁越しに響く。
 何をやっているのか、アキにはわかっている。
 昔、デライに、房事を見せられたことがある。しとねの、ばかばかしい睦言まで、聞かせられた。
「こいつはまだガキなんだから、わかりゃあしねえんだよ」
 デライは、女にそう言っていた。アキは、冷静に、「子供」を装ってお愛想笑いをした。
 アキは未来を考えたことがなかった。アキは絶望にうちひしがれた女ばかり見ている。とにかく、ただひたすら、生きて、現在を積み重ねていくことしか考えられない。もし、生ききれなくなったら、……そのときは自殺するしかないだろう、と思う。
 捨てられるか、売られるか、殺されるか、自殺するか、……それがアキのまわりの、女の末路。
 よく、気が狂わないものだと、自分でも思う。まわりの全てが狂っているのに。
 もし、アキに自分だけの宝物がなかったら、ほんとうに狂っていたかもしれない。宝物……それは……。

 アキは、部屋のろうそくを、そっと吹き消した。
 何も見えない、暗闇が広がる。アキは、それでも、目を広げ、暗黒の空間に何かを捜し出そうとする。
 闇に、微小な、光の点が、ぼんやりと、あらわれる。
 ぽつり、ぽつりと、……それは、数を増し、やがて、乳白の霧のような細やかな流れとなり、部屋の中を満たしていく。
 さわやかな、冷たい風を白い肌でうけ、ここちよさに、身をゆだねる……。アキは、そっと目を閉じ、そして開く。
 ふらっと、うしろへ倒れ込み、何もない空間へ、落ちていく。
 アキだけの、世界へ。
 白い点は、やがて色づき、集まり、透明な、ほんのりと光るボールになる。
 オレンジ色、黄色、スカイブルー……。
 ボールたちがホワイトの床に、華やかな影を落とす。影同士かさなりあって、宝石のような、きれいな色が浮かび出る。
 アキの肌を、七色に彩る。
 ずーっと、ぼーっと、天を見上げる。かなたまで続く、ボールの群れ。同じ方向に動いている。近くのものは早く、遠くのものはゆっくりと……。
 きもちよい、眠気を感じて、目を閉じる。
 あたたかい……。
 目を開けると、いつのまにか、晴れた草原にいる。
 少女らしい、花もようのワンピースに、エプロンを着けて。
 バスケットに、だいだい色の花びらを、たくさん摘んで、これで自分だけの髪飾りを作るつもり。
 遠くに、小屋が見える。ひとやすみして、あそこで、花を編もう。アキは、花を散らして、駆けていく。
 もしかしたら、友達がいるかもしれない……。
 丸太作りの、少し重いとびらを、全身で、押して開けると……。
 黒髪の少女が、紅茶を入れて待っていてくれた。アキは、思わず、かわいらしく、よびかける。
「ねえさま……!」
「あら……」
「……また、会えましたね」
 長い黒髪に、黒い瞳の少女は、大人びた微笑みで答えた。アキよりずっと背が高くて、やさしいお姉さんの感じがする。
「ここは、あたししか知らないと思っていました」
「私も、そう思ってたよ」
 ふたりで、くすっと、笑う。ふたりだけの、秘密があるのが、とてもうれしくて、……アキの現実では、決して見られない笑みで。
「でも、いると思っていたよ」
「あたしもです」
「うれしいね」
「うれしいです……」
「今日は、花を編もうと思ってたんです」
「いいね。手伝わせてくれない?」
「いいですよ」
 二人は、紅茶の、ちょっと甘い感じもする香りの中で、花を編みはじめた。ときどき、花を取ろうとした、手と手が触れ合って、お互いのぬくもりを感じあう。
「アキ、……あなたは、どうやってここに来るの?」
「それは、……あたししか知らない道があるんです……」
「そう……。いつかアキの家にも行ってみたいね」
「そうですね。……いつか……」
 アキの表情が、ほんの少し曇った。忘れかけていた、何かを急激に思い出した。
 現実、という忌まわしいものを。
 けんめいに、忘れようとする。目の前にいる、黒髪の少女を信じようとする。
「どうしたの……? アキ?」
 あまり聞いたことがないはずなのに、ひどく懐かしい声のような気がする。あたたかい言葉に、アキは少し、涙を落とす。
「いえ、何でもありません」
 ぎこちなく、アキは笑って見せる。

 はじめてアキと黒髪の少女が出会ったとき。
 ふうわりとあたたかい、春の匂いのするそよ風を楽しむように、少女はうすく目を閉じ、自然のままに髪をなびかせていた。
 軽やかな足音が近づいてくるのを感じ、少女はそっと目を開いた。
 遠く海を望む、ゆるやかな山すその方から、ちいさな影がはきはきと登ってきていた。
 ちいさな影──アキは、登っていく先を見上げた。太陽と、あざやかな空を背に、くっきりと人影が映える。
 誰もいるはずのない魔法の草原。……しかし、黒髪の少女は、存在があたりまえに感じてしまうほど、ここのやわらかな空気になじんでいた。
 ──かみさまがいるの?……──
 アキはそう思った。
 すべてを包みこみ、ひとしくあたためる春の女神。
 すてきな、この空間は、もしかしたらかみさまのものかもしれない。
 黒髪の少女は、ごく自然に、アキへ手をさしのべた。
 差し出した手を、アキはそっと両手でつつみ、無限に深い瞳で少女を見上げた。
「あなたは、誰なの……?」
「……私は、ミン。あなたは?」
「あたしは……」
 瞳はわずかにくもり、とまどいを見せ、ようやくに一言だけ答えた。
「あたしは、アキ」
 名前だけでよかった。ふたりにとって永遠に続く春だけが「世界」なのだから。
 自分の「現実」が嫌いで、だからアキはミンの「現実」を聞こうとはしなかった。──ミンは魔法の世界に住む春のかみさま──そう信じていたかった。

 だけどもミンは、夜眠ったとき見る、夢の中から、この草原に来ているらしかった。だから、現実の朝がきたら、草原から、帰らなければならなかった。
「アキ、ごめんね、私そろそろ帰らなきゃ……」
 ミンは、そっと席を立った。
 しがみつくように、アキは言葉をかけた。
「……ミンねえさま。……今度はいつ来るんですか?」
 明るく、微笑んで、ミンは答えた。
「ふふ、アキが来るときは、いつもいるよ」
「……また来ますよね」
 ミンは、ゆっくりととびらを開き、振り返らずに、出ていってしまった。
 アキは、ひとり、取り残される。
 編み上がった、花の冠を、そっと手にして、かぶってみる。──あたしには、にあうのかな? ……ねえさまのいる内にかぶって、見てもらったらよかったな……──
 でも、それは、もう遅すぎる後悔だった。今度来たときは、もう、花の冠はなくなっているだろうから。
 しかたなく、アキは立ち上がった。
 ──もう、帰ろう……。──
 とびらの把手に手をかけて、すこしだけ躊躇した。この外が、もう草原でないのはわかっていた。このとびらを開ければ、待っているのは現実だけ……。
 それでも、帰らなければいけない。そう……生きられるうちは、生きていよう。たとえ、未来が何もわからなくても。
 アキは、ぎゅっと、とびらを開けた。
 そこは、何もない、深い深い、闇の空間で、アキは、無限とも思われる距離を、ゆっくりと落ちていった。
 冷たい風を顔に受け、きゅっと目を閉じ、……開くと……。
 アキは、闇に包まれた、自分の部屋に戻っていた。
 壁ごしに、女の悲鳴が聞こえてきた。
男が、女を、はげしく懲罰している。
 逃げたのだろうか、それとも、客を怒らせてしまったのだろうか。とにかく、ここにいる女は、よく叩かれた。
 ときには、折檻の役目を、貴族たちが引き受けることもあった。そのときは、残酷なやり方で、女を殺してしまうことすらあった。
 すべての、暗黒を、十にもならぬアキが、見て、聞いている。
 ──私に、未来はない……──
 アキは、そっと、ほおに手をやった。
 ほおは、しっとりと、涙に濡れていた。

 次の朝は、気持ち良く晴れて、港は、市が立って、近辺の住民がこぞって押し寄せていて、ごったがえしていた。
 喧騒から、少し外れた裏道の、廃屋の高い塀の上に、アキは腰掛けてぼおっとしていた。
 手のパンを、ちょっとちぎって、道に投げてやる。小鳥が、二三羽集まってきて、ついばむ。
 一瞬、──鳥はいいなあ、私にも羽があれば……──と思う。
「……アキ!」
 若い男の声に、アキは振り向いた。
「なんだ……ミルチャか」
「また、ぼおっとして、どうしたんだ?」
「眠いだけよ」
「そうかあ、まだ昼寝る生活してんのか?」
「そうよ、かまわないじゃない」
 まるで、売女だな、とミルチャは思った。
「夜何してんだよ。昨日も、夜遅く、客の前に出てたって、おやじさん、えらく困ってたぞ」
「アレが困ろうが、関係ないわ」
「『アレ』って……、おやじさんだろ? アキの」
「アレでいいじゃない。父親とも思えないよ。娘をやばいところに寝かせといてさ」
 ミルチャは、どきりとした。年端もいかぬ子と思っていたが、オモテもウラも完璧に見透かされているようだ。
 もっとも、ミルチャも、子供と話しているような気はしなかった。同じ世界に住んでいる、ちょっと立場の違うともだち同士、という調子でつきあっていた。
 塀の上に、ひょい、と腰掛けて、ミルチャはアキに話しかけた。
「アキは、市を見にいかないのかい?」
「人ごみはにがてなのよ」
「でも、何かほしいものがあるんじゃないか?」
「……何もいらないわ」
「……前、魔法の石がほしいって言ってたじゃないか」
「そうねえ……。でも、あたしが魔法をまじめにやってもしょうがないと思うから、……やっぱりいいわ」
「はあ」
 どうして、子供がここまであきらめきれるのか、ミルチャには不思議だった。彼自身も、子供時代は決して幸福ではなかったが、アキほどではない、と思えた。
「ミルチャこそ、……ヒマそうね」
「ははは、俺も人ごみは好きじゃない」
「またまた、昔は、市のたびに、『エモノだ』なんて言って飛び出していったくせに」
 アキは、珍しく上機嫌だった。ミルチャと話しているときぐらいにしか、こんな明るいアキは見られない。
「今はスリなんかやってねえよ。おやじさんのおかげで、少なくとも実入りは安定しているな。……悪い事から足は洗えてないけどよ」
「また、『おやじ』? ……この街どこ行っても『デライ』ね。なんかアレがなきゃどうしようもないって感じ」
「そういうなよ、仮にも父親だろ?」
「ロクなもんじゃないわ。街の人がアレのことどういってるか知ってるわよ。『ごうつくばり』『人でなし』『なりあがり』『きちがい』……まだあるわ」
「おだやかじゃねえなあ。ま、おやじさんの耳には入れないことだな。誰が言ったんだって騒ぎだすのは目に見えてる」
「わかってるわよ……ミルチャよりね」
 アキは、自分の背丈ほどもある塀の上から、軽やかに道に着地した。
「もう、帰って寝るわ」
「……おやすみ」
 ミルチャの声を背中で聞いて、アキは港の方へ向かっていった。市をひとめぐらい、見ておこうと思ったのだ。しかし、こっそり買おうと思っていた魔法の石は売られていて、アキは、ひどく残念に思った。

 夢も見ずに眠り、目覚めたとき、アキは異変にきづいた。
 部屋の中に食事が差し入れてあった。ドアは、開かなかった。無理に開こうとして、外側からカギがかけられているとわかった。
 ドン、ドン、と二回、思い切りドアを叩いて、その場にへたりこんでしまった。──騒いでみたって、たぶん無駄だろう──
 時刻は、……紅のなかば(午後五時)ぐらいだろうか。だが、窓も固く閉ざされていて、外の様子はわからない。
 私は、どうなるのだろう……。アキは頭を振って、それ以上考えることを嫌った。なぜか、見知りの女の疲れた顔が、次々と浮かんでくる。
 なるようにしか、ならない。そう思えば、気が楽になった。生きられるだけ生きて、嫌になったら、死ぬ。私ひとり死んだところで、悲しむものはいない、何も変わらない。
 ろうそくの火をじっと見つめる。
 頭が、だんだんぼおっとしてくる。そのうち、からだが、まるで炎と一体になったかのように、火照ってくる。
 熱い心の、芯にかくれた、冷たさを捜し出す。こころをそこに置くと、ふっと、ろうそくの火が消える。
 暗闇は、すでに、白色の光の粒に満たされている。
 冷たい風に乗って、光点は、ゆるやかに、うずを巻く。巻いて、だんだんと上へ昇り、はるかかなたで凝結して、色をつける。
 宝石や、飾りガラスのような、かがやく透明な玉が、静かに、天より降ってくる。……アキは、まるで、天へと昇るような心地がして……。
 ダンダンダンダン!
 激しく叩かれるドアの音で、アキは現実に引き戻された。一瞬、全身に寒気が走る。
 ダンダン!……
 誰かが、必死に、外からドアを開けようとしている。何者かわからない、恐怖感に、アキの身体は凍りつく。
 ひきはがされるように、いっぺんにドアが開く。そこには……。
 やつれた感じの、女が立っていた。
 栗色のカールした髪は、もつれ、汚れ、かがやきを失っていた。白い肌は、傷つき、土にまみれ、血色がなかった。くちびるは乾き、着ているものはみすぼらしく破れ、……ただ憂いを含む瞳の奥に、ほんのわずか、かつての美しさを残していた。
 やせて、表情まで骨ばって見えた。しかし、声は、まだ若く、きれいに響いた。
「アキ……、アキ!」
 ──知らない女……でも、向こうは私を知っている!──
 不気味さと恐ろしさが、アキに迫ってくる。
 女の手は血に染まっていた。けんめいにドアを開けた様子だった。赤い液体の流れが、妙に生々しく、目に映った。
 ──私、私の未来……。考えるのをやめていたことが、今目の前にある……!──
「いや……やだ、こないで!」
 アキは、二三歩、後じさる。
「アキ……逃げて、アキ!」
 女は、部屋に足を踏み入れようとした。
「やめてよ、近づかないで! あんた、誰よ!」
 かたわらにあったろうそくが、女に投げつけられた。ろうそくは、女の痩せた胸に当たり、女の表情をひどくくもらせた。
「わからないの? ……私は……!!……」
 ……そこまでだった。
 女は、前のめりに、ひざを落とした。一瞬、驚愕の視線でアキを見て、そして、目は固く閉ざされた。栗色の髪が、床に投げ出される。
 後ろから、ゆっくりと、男があらわれた。
 デライだった。
「だいじょうぶか? アキ?」
 醜悪だった。好色そうに、顔を歪めていた。貪欲に太った身体は、あぶらぎって、カエルみたいにぬめぬめした不快さを放っていた。
「アキ……おいで……」
 気味悪い、猫なで声に、アキはいつもとは違う何かを感じた。
 女の声が、脳裏を走った。
“……逃げて……!!”
 いつのまにか、床に投げ出されたろうそくに、炎が灯っている。アキの心を映して、光かがやく。おさえきれない、怖さ、わけのわからない、怒りを、アキは思い切り解放する。
 炎が、激しく、天井までとどくほど、燃え上がる。デライの服に引火して、デライは炎に包まれる。
「う……わっ!」
 崩れ落ちたデライの横を、さっと走り抜ける。振り返りもしない、何を考えもしない。ただ、ここから離れればいい。
「待て、……どこへ行く! アキ!」
 デライの悲鳴を背中に受け、後ろめたさを振り払い、アキは走り出した。アテもなく。ひたすら、デライから遠ざかろうとする。階段を下り、とびらを叩き開け、広い庭を走り抜けて外へ出る。
 外は、もう日が落ちかけ、茜色に染まっていた。ゆうげの匂いが沸き立ち、なべを磨く音が、聞こえてくる。いつものようにのどかな雰囲気が、せわしない、アキのこころをかき立てる。
 立ち話をしている女。井戸から水をくんでいる男。……みんな大人。子供はいない。人の背中ばかりが、やたらと目立つ。
 足を止めて、まわりを見上げる。
 港の三方を、森が取り囲んでいる。暗い森が、港におおいかぶさってくる。まるで、港をおしこめている、牢獄の壁のようだ。
 どこへ行けばいいの? 弱気がアキを襲う。
 立っている、足が細かく震えている。泣きたいほどの不安。でも、泣くわけにはいかない。
 ──港へ、帰った方がいいの?──アキは迷った。しかし、アキは港全体にただよう、気持ち悪いふんいきを感じとっていた。
 料亭、娼館、港の市、役所、賭場、酒場……みんな、デライの息がかかっている。この街は、「アレ」の街だった。見るもおぞましい、「アレ」の臭いが、街じゅうに充満しているのだ。
 こんなところには、一刻もいたくない。
 アキは森へと飛び込んだ。
 暗い、森を抜ければ、街から出られるはずだ。だけど、森は、道もなく、狼や野犬、ひょっとしたら妖魔さえいるかもしれない。
 それでも、アキは森へ踏み入っていく。両足に力をこめ、一歩一歩坂を登っていく。背中に感じる、「何か」から必死にのがれようとして。
“逃げて……”
 女の声が、再びどこからか響いてくる。少し、かなしげで、なぜか遠い昔に、聞いたような気がする。
 日は、暮れてしまった。
 もう、港へ、戻ることもできないだろう。
 何も見えない、……何も聞こえない。
 ふと、白い光の霧が、アキのあしもとから沸き起こり、アキの身体をつつんでいく。
 ──どうして? こんなところで……──とまどっているうちに、アキはしだいに、幻想の世界にとらわれていく。七色のボールがあたたかくアキを包み、アキを夢の草原へと連れていく。
 ふきわたるここちよい風に、草の波がなびき、かがやく光のしまもようが、さあっと動いていく。白のワンピースに日除けのぼうしをかぶり、アキは草原の中央に立っている。
 遠くに、いつもの小屋が見える。──今日は、ミンねえさまは来てるかな?──アキは、駆けていく。
 きしむとびらを、全身で、ぎゅっと押し開ける。きいーっという音が、うつろに鳴った。
 中には誰もいなかった。いや、「声」だけが、部屋を満たしていた。
「アキ……アキ……」
 アキの名を呼ぶ声が、天井から、床から、テーブルから、聞こえてきた。若々しい、美しく響く、女の声だ。アキは、思わず、上を見上げ、部屋全体の空気を感じとろうとする。
 ふしぎと、心がゆったりと、休まっていく。
 気がつくと、テーブルの向こうに、女の人が座って、微笑んでアキを見つめている。
 ──きれいな、人だな──
 栗色のウェーブのかかった髪は、豊かに、美しくなびき、テーブルに組まれた腕は、細く、白く、胸元には気品をただよわせ、表情は彫像のように均整がとれて、それでいて、瞳はやわらかく、全てを包み込んで許してしまう、慈母のあたたかさで見つめている。
 アキは、視線を、自分の腕に落とした。同じように、白魚のような指先だった。髪の色も、つやも、まったく同じだった。
 ──この人は……──アキは、ぼうぜんとして、その先を考えるのをやめてしまった。今のあたたかさに、身をゆだねてしまいたかった。
「アキ……ありがとう……」
 消え入りそうな声で、女は言った。
「アキ……会えてよかった……」
 アキは駆け寄った。抱いてもらえると思った。しかし、女の腕は幻燈の映像のように、むなしく空を切った。
「ごめんね……アキ、私もう、行かないといけないの」
 女の姿が、次第に、けむり、薄くなっていく。
 どこかで聞いた声……何だか、ひどく懐かしい……。
「……おかあさん」
 アキはつぶやいた。なぜこんな言葉を発したのか、自分でもわからなかった。それなのに、自分の言ったことで、すべてをさとってしまった。
 女は目を閉じて、そっと、かなしげに、笑みを作った。
「そんな……おかあさん!」
 必死に、アキは叫ぶ。
「…………ごめんね……」
 声も、姿も、空に溶けこんで、かききえていく。
「どうして! どうしてよ!」
 アキの叫びも、ただ宙に散っていくだけ。
「あたしも! あたしも連れてってよ!」
 熱い涙が、ほおを伝う。
“逃げて……!”
 あの声が、また、アキの脳裏を走る。
 ──あの人は、私のおかあさんだったんだ!──
 今まで、私に母がいるなんて、考えたこともなかった。
 胸の奥から、止められない熱さが、こみあげてくる。
 なんてことを、してしまったのだろう、私は……!
 空間のどこかで、自分がわめいている。
「やだ、こないで! 近づかないで! あんた、誰よ!」
 みにくく顔をゆがめ、自分がさけんでいる。
「やだああああっ!」
 悲痛さは、言葉にならない。
 いっそ、死んでしまいたい。消えてなくなりたい。こんな自分はどこかへ行ってしまった方がいいんだ。
 だけど、声がまた聞こえてくる。
“アキ……逃げて!”
 どうしたらいいの? どこへ逃げるの?
 アキはやみくもに、とびらにぶつかっていった。
 外は、ねっとりとした、暗黒だった。
 白い光の点は、動かずに、じっとしていた。カラーボールも、光を失い、くすみ、ゆらゆらと勝手な動きをしていた。その中を、ひどくゆっくりと、アキは落ちていった。
 全身に、まとわりつく感触が広がる。
「……!!」
 表情が、こわばる。恐怖に身が凍り、悲鳴さえあげられない。
 そのとき、アキはかすかに呼ぶ声を聞く。
「……どうしたの! アキ!」
 はっと、声の方を振り向くと、一瞬、心配そうな、黒髪の少女が見えた。──ミンねえさま……?──そう思うまもなく、少女のすがたは闇に飲まれていった。
 光点も、ボールも、しだいに闇に消えていき、そして、アキ自身も深い闇の中へ落ちていった。
 何も見えない、何も聞こえない。
 深い森の、深い闇。
 ふくろうや狼、山賊やへびや舞い踊る妖精たちの群れまで、何もいやしない。
 風もない。暑さも寒さも感じない。
 ここがどこだか、わからない。
 憎しみも悲しみも消え、
 希望も消え、
 私が、誰か、わからない………………。


夜の底は柔らかな幻〜第2章