夜の底は柔らかな幻〜第3章  

Phase 3 "inside out"(495/Spring)

 ミンが、マイネクに連れられてきてから、半年後の、春の始めの頃。
 このころには、ミンも完全に町の人たちの中に溶け込んでいた。鉱山の魔法使いサイアルの下で修行を積むかたわら、鉱山の食堂の手伝いをしていて、いたる所で器用さを発揮して、皆に重宝がられていた。
 そして、月に一回、マイネクが町を訪れるのを何よりも楽しみにしていた。
 その夜は寒く、ミンは小さな部屋の暖炉の前でうつ伏せになってほおづえをついていた。そばの椅子にはマイネクが座って、何か記録を取っていた。
 数字と、矢印と線がいっぱいで、ミンにはまだその意味がわからない。ぼおっと、ペンのひっかく音を聞いているだけ。
「何、書いてるの? 先生」
「ん? これはな、……魔法空間の地図だよ。人が、魔法空間の中で迷わないように。それと、空間に何か変なことがあったらすぐわかるように、書いとるんだ」
「おもしろそうね」
「……これでも、けっこうたいへんな仕事なんだぞ。何せ、全然記録のなかったものが、いきなり出現してきたりするからな」
「そうなの……」
 眠たげにしているミンの背中を、マイネクは少しの間、ぼんやりと眺めていた。──わしにも、これぐらいの孫娘がいたらな──などと、とりとめもないことを考えながら。
 左手をあてて、ミンはかわいらしく、あくびをした。そのまま、頭を床に落として、眠ってしまいそうになる。
「おやおや、ミン、こんなところで寝てはいかんぞ」
「はあい……部屋帰るよ」
 ちょっと、目をこすって、ミンはゆっくりと立ち上がった。厚手のゆったりとした服から、すらっとした足を二本出して歩きだした。
「ミン……」
 マイネクは、ミンを呼び止めた。
「なあに?」
「おまえは、まだ、あの夢を見てるのか?」
「うん、……ときたま」
 ミンは、前に、マイネクに不思議な夢の話をしたことがあった。同じ草原の同じ小屋で、しょっちゅう会っている女の子がいるのだと。
「その草原、どうやって行くんだ?」
「えー? ……眠って行くの」
「だから、……夢の中で、どんな道をたどって、草原に行くのか聞かせてくれないか?」
「どうして?」
「……その夢がな、どうも魔法空間と関係があると思うのだ。地図と見比べて確かめようと思ってな……」
 ミンは、小首を傾げた。
「いいけど……」
 暖炉の火が、一瞬だけ、ぱっと爆ぜた。ミンの横顔が紅色にきらめいた。ミンは、さっきまで横になっていた敷物の上に、またうつぶせになってしまった。
「眠るとね、……まず空の方へくーっと引っ張られるの。それから、白い霧の中にぱっと入って、まわりが見えなくなるの」
 うつろな、眠たげな顔で、ゆっくりとミンは話し出した。マイネクは、真剣に、地図を見つめている。
「それからあ……、右の明るい方へ行くと、霧が晴れて、ながーい雲の廊下みたいになってて、そこを歩いていくの」
「それから?」
「ええとぉ……おしえなーい……」
 小さなあくびをして、ミンは組んだ腕の中に顔をうずめた。
「こら、ミン。だまってどうする」
「ここから先は、……ひみつなの」
「秘密?」
「誰にも行けないよ。わたしと、あの子しか入れないようにしたんだよ」
 甘えた声が、かえって、いじわるらしかった。
「何をしたんだ? ミン」
「魔法を、かけたの」
 くすくすっと、おもしろそうに、ミンは続けた。
「……いろんな場所を知ってるよ。……へんな動物のいるところとか、龍の住んでいる国とか……、針みたいに、高くて細い建物がいっぱいある所とかね。でも、わたししか行けないと思うよ」
「ミン、君は……」
 マイネクは、言葉を失った。子供っぽすぎる、無闇な魔法の使い方は、注意すべきだった。──だが、この子の力は、私には計れない。自分の小さな考えで、この子の行動を縛ることはできない。
「あの子と約束したの……この場所は、二人だけの秘密、だって」
「そうなのか、……しかたないな」
 ミンに聞こえないように、マイネクはそっとためいきをついた。結局は子供のいたずらなのだろう。
「ところで、その女の子とは、どんな子なんだ?」
「……かわいい子だよ。年下なの」
「名前とか、聞いたかい?」
「アキっていうの」
 ──ミン以外に、そんな、私も知らない場所に行ける子がいるのか──マイネクは、少し、胸の高鳴りを覚えた。実在の女の子二人が、魔法の中で会っている。間違いなく。──すばらしいことだ。だが、もしかしたら……──
「ごめんな、いろいろ聞いて。もう帰って寝なさい」
「はあい……」
 ゆらりと、ミンは立ち上がって、ランプを持ってそっと部屋を出ていった。音もなく、静かにドアが閉まった。
「『世界』がきたのか……」
 マイネクは、ひとりごとをつぶやいた。

 「島の祖」カゾリフには、魔法空間を越え、他の世界に二回行ったという伝説がある。
 彼女は荒れた「神の世界」を直しに行き、さらにこの世界に戻ってきて、結界「銀色の碑」を建て、もう一度旅立っていった。
 彼女は島のいたる所で神としてまつられており、そこでは、「カゾリフは五百年後、再び帰ってくる」という言い伝えが残っていた。彼女が「銀色の碑」を建てた年から始まった「銀碑暦」も、あと五年で五百年、というところまできていた。

「わしの勘だと、カゾリフの行った『世界』は、また近づいてきとると思うな」
 薄めにいれた紅茶を音をたててすすり、大きい素朴なカップをゆっくりとテーブルに置いて、マイネクは言った。
「また『世界』ですかい? 先生」
 笑って、サイアルが応えた。彼はケンネの鉱山町の魔法使いで、坑夫たちよりも体格が良く、多少の剣術の心得があって、顔中にたくわえられた虎髭をトレードマークにしている。現在の鉱山でのミンの師匠にあたる。
「前来てもらったときも、同じ話を聴きましたぜ?」
「まあ、そういうな。大事な話なんだから」
「そうですね、私はもっと聴いてみたい」
 ライサは少し微笑み、期待に満ちた視線をマイネクへ送った。
 彼女は、ケンネ町を作った人々の直系の一族で、将来は魔法使いとして町のリーダーシップをとることを期待されていた。今はまだ若く、けんめいにいろんな知識を身につけようとしていて、マイネクの話にも大いに興味を持っていた。
「マイネク先生、先生の言う『世界』って結局何なのですか?」
 南側の、開け放たれた窓から、煌々と月の光が差し込んでいた。めずらしいことに、風はなかった。柔らかなランプの光は、ぴたりと静止し、ときどきパチリと小さな火花をたててはゆらめき、また再びおとなしくなった。
 ミンを眠らせたあと、マイネクはサイアルの家を訪れた。マイネクがケンネの鉱山町に来たときはいつも、サイアル、ライサと魔法の話をしているのだ。「寿命」の存在。妖精と妖魔の違い。魔法に関する性差。そのような魔法の未解決の問題に関して、議論することが多かった。最近の話題はもっぱら、マイネクの言う『世界』だった。
 マイネクは白髭をひねり、せきばらいをしてもったいをつけ、重々しく言った。
「うん、……わしにもよくわからん」
「な……」
 ライサは絶句した。目を見開き、つん、と口をとがらせる。
「まあ、正直なところな。魔法空間の地図を描いてて、存在は確信したよ。だが、そこへ行き着くまでがあまりにも遠い」
「それで、わかるんですか?」
「影響が、あるんだよ。明らかにな。魔法の風は、最近では常に一定方向から吹いてくる。どうも『世界』の影響らしいのだ」
「何でそう言えるんですかい?」
 大きな身体ぜんぶで、「理解できない」というジェスチュアを作り、サイアルが尋ねた。
 くいくいっと、白髭が引かれる。いつの間にか抜けた毛が二本、三本と骨ばった指の間にからみついている。
「そうだなあ……、風の性質かな? 我々の『世界』は、『殻』とそれをとりまく『風』があるとされているが、今吹いている魔法の風は、我々の『世界』由来ではないのに、我々の世界の『風』に似ている」
「なんか、ちょっと根拠が薄いんじゃあないですかね?」
 丸顔のサイアルの笑いに、マイネクは少しむっとしたような顔になった。
「だから、まだ仮説なんだよ、これは! わしなんかの力じゃ、よその世界まで行って調べてくるなんてことはできんのだから。……まあよい」
 細い腕をゆっくり組んで、話を続けた。
「……さらに、現在のようすが、カゾリフの伝説によく似ている」
 結局それね──。ライサは肩をすくめて、微笑んだ。

 カゾリフがはじめて島に来てからの様子は、島のあちこちで神話にされていた。
 神話には、「カゾリフが来た頃、『神々の世界』の影響で、魔法使いの素質を持った子供たちがたくさん出現した」という内容がいたるところに語られていた。

「先生、それは、今が『カゾリフの二度目の旅立ち』から五百年ぐらい経ってる、ということなのですか?」
「ああ、そうか、それも確かにあるな。だがわしの目をつけていたところは別だよ。……カゾリフが最初にこの島に来たとき、妖魔が増えていて、子供の魔法使いがたくさんいた。……という記述も残っている。これはまさに今の島の状態そのままではないかな?」
「うーん、そうですかねえ?」
 今度はサイアルが、太い腕をどっしりと組んだ。こむずかしく考えるさまは、でかいわりに愛嬌がある。
「……たしかに、ミンぐらいだと、すごい、と言っていいかもしれないですが、後はどうか知りませんぜ?」
「あたしも、あまり良くわかりませんわ」
 マイネクは、にやっと笑い、大きくゆっくりと何度かうなずいてみせた。
「うんうん、わしの言いたいのはそこなんだよ」
 後の二人は、互いに顔を見合せ、「何だろう?」という表情を作った。
「すごいのはミンだけではないぞ。まだ他にも魔法使いの卵を、わしは知っているのだよ」
「誰です?」
「どんな?」
 二人の声は間髪入れず、まったく同時だった。マイネクはさらに愉快そうに笑い、得意げに両手を身体の前に構え、話を続けた。
「サイアル?」
「何ですか」
「ミンの……ほら……、夢の中の話というのか……あれ知っとるか?」
「しょっちゅう聞かされてますぜ」
「私も聞いたわ」
 いたずらっぽく笑って、ライサは言った。
「『アキ』のことでしょ?」
 マイネクは、瞬間、言葉につまり、間の抜けた沈黙になった。軽い風が部屋の中に入りこみ、質素なテーブルの上の紙束をカサカサと鳴らした。
「……何だい……。知ってたのか」
「あの子、とてもうれしそうに話すのよ」
 ライサの声もちょっとうれしそうに上ずる。
 マイネクは調子が狂ったように、二三度首をかしげた。
「……うむ、そうか。……だが、少し気になるな。魔法の中で会うことに心配がないわけではない……」
「……ああ」
 うなずいたのは、サイアルだけだった。ライサはきょとんとしている。これは二人の魔法の経験の差だ。
「何です?」
「魔法空間でかんたんに会える、ということは、空間での距離が極めて近い……言うなれば、魂がふれあっている、という可能性があるのだよ」
「……なんだかロマンティックな言い方ですね。……それが何か悪いことでもあるんですか?」
「うん、まあ……悪いと明らかに言えるもんでもないんだが……」
 白髭にはすでに指による巻きぐせがしっかりついてしまっていた。
「……どちらかが魔法を使えば、両方に影響がでる……かもしれないのだ」
「レイナとシノのように?」
 レイナ、シノとは島の有名な妖精で、ほとんどいつも二人で行動していた。非常に高い魔法の力があり、五百年前のカゾリフの時代から生きている、という噂があった。
「そうだな、彼女たちほど極端でないにしろ、ミンとアキにも似たようなことがあるかもしれん。幸い、今はそんなことはないようだが、この子たちが実際に会うことになれば、どうなるかはわからんな」
「まずいことになりそうなんですか?」
 マイネクをさえぎるように、サイアルが答えた。
「どうだろう……? 実際、アキが、どこにいるかもわかんないんだぜ?」
「うむ、……そうだな」
 しわの寄った顔が苦々しくしかめられた。
「……おそらく、この島のどこかとは思うが……魔法使いの直感にすぎん」
「いる、ということは確かだと思いますぜ」
「それに、『アキ』の魔法の力も相当なものだと思いますわ」
「……そうだな」
 二人になぐさめられ、マイネクの表情は明るさをとりもどした。

 実際、この直後、マイネクとアキは出会うことになる。


夜の底は柔らかな幻〜第3章