夜の底は柔らかな幻〜第4章  

Phase 4 "yoruno nakano yoru"(495/Spring)

 時間もなく。空間もなく。
 ただ自己だけが、おぼろに存在する。
 どこに目があるのか、耳があるのか、定かでなく、わずかに「感じ」だけが動いている。
 けだるく、暑い。溶けかけのコールタールの海のよう。
 どろどろとねばねばと、境界も不明確なまま、ゆっくりと流れている。落ちているのか、昇っているのか、それすらもわからずに。
「わ・た・し…………」
 魂の一点で声が響く。
「わ・た・し・ど・こ・?……」
 とたんに、ぎゅうっと、絞り出されるように、内側から熱がはじけてくる。
 悲鳴をあげようとして、のどのありかを知る。激しい動悸が、胸のありかを伝える。
 暗黒の分子が、ほんのわずか清められ、集まって次第にきめこまかな白肌をかたちづくる。
 息の苦しさを覚える。口を開くと粘性の闇がぐっと割り込んで入ってくる。必死に口を閉じると、手足の指の先からちりちりとしびれてくる。重くなり、その感覚さえなくなり、やんわりと中枢へと侵食していく。
 肩や腰まで侵され、重みが背すじの太い骨を、急激に遡ってきたとき、本能が耐えきれぬように口を開ける。
 パクパク、魚のように、空気を食べようとする。何もない。瞬間、さっと青ざめる。
 どうしたらいいの?
 ──闇でもいいから助けて!──
 心のわずかな迷いに反応して、どっと、得体のしれないものどもが、一斉におし寄せてくる。固く閉ざした自己の外殻の全てを強引に押し広げて、闇が割り入ってくる。
 眼前に七色の光が広がる。ちかちかとまばゆくまたたく。
「あぁ……」
 悲鳴なのか、何なのか、わからぬ嘆声。それさえもかきけされ。
 鼻腔の奥に臭いをかぐ。闇のくささ。「アレ」の臭い。全身が総毛立つ。逃れようともがくが、すでに手足はあらがう術を失っている。
 気が遠くなり、底知れぬ暗黒へ落ちていく寸前、遠い叫びを聞く。
「逃げて!」
 虹色に光る向こうから、かすかに。
 最後の望みを賭けて、光へと意識を向ける。しかし、突然響きわたる暗黒の声。太く、低く、何重にもこだまのかかった、この世で最も忌むべき、デライの声が、きらめきをかきけしてしまう。
「……馬鹿が……逃げられるわけがないだろう! この闇はおまえ自身だ! 母を殺したお前だ! 自分から逃げられるとでも思うたか!?」
 『母を殺した』。この一節だけが何度も何度も、大きく、小さく、えんえんと頭の中で鳴り続ける。
「わ・た・し・じゃない…………!」
 かろうじて絞り出した声は、空しく闇に飲まれていった。
「いや、おまえだよ。あの瞬間の母の顔を見たか? 哀れみ……そして絶望にゆがんだ。あの時おまえは何と言ったのだ?」
 ──やだ、来ないで、あんた、誰よ!──
「いやああ─────っ!…………」
 両手で耳を押さえる。だが、声はてのひらを突き抜け、心に直接響いてくる。
 ──あんた、誰よ!……あんた、誰よ!──
 果てしない暗黒のあちこちで、薄く光る無数の私が、口々に叫んでいる。全ての私が私を見て、苛むように、にらみつけ……。
「私は、だれ……?」
 無意識のつぶやきに、何かが、壊れた。
「わ・た・し・は………………」
 そこまでで、途切れる。後の答えはない。
 長いまつげは伏せられ、上体がくずれおち、
 支えるものもないまま、はるか遠くまで流されていく……。
「私が母を殺した……私が……」
 自分の心から出た言葉で、自分自身を傷つけながら。
 いや、それすらももうすでに感じなくなって。
 思考を止め、感情を殺し、それでかろうじて自我を保ち、
 何を見ようともせず、何を聞こうともせず、彼方へ、彼方へと……。
 永劫の時を経て、流れついた地で、誰かに抱きとめられる。
 きつく、でも、あたたかく。
「……アキ、どうしたの……?」
 優しく、低い、懐かしい声。
「……アキ……、そう、あたしは……」
 目頭が熱くなり、目の前が真っ白になり、混じり気のない純粋な白の光の中へ身体が投げ出される。
 刹那、包み込むような黒い瞳のまなざしと、漆黒に流れる美しい髪を見る。
 手に触れようとすると、……少女の幻影は虚しく消える……。
 白の中に、独り、とりのこされる……。

 鐘をたたくような激しい耳鳴りがして、猛烈に頭痛がした。
 あまりの痛さに目をぎゅっと閉じ、開けると、全身にべっとりと汗をかいていた。
 白地に、黒の格子もようを見た。そのとき、アキは夢から現実へ帰ってきた雰囲気を感じた。どこかの殺風景な部屋のベッドで、あおむけに寝かされ、天井を見ているのだ。
 身体が、きゅっとすくむ。
 あせりを感じる。──私は、どこにいるんだろう!?──。「アレ」の存在が頭をかすめる。
 ──逃げなきゃ!──。反射的にはね起きようとして、脚と腕のつけねに刺すような痛みが走った。
 手足はかろうじて動いたが、ひどい疲れが残っていて、かぶさっている毛布一枚をはねのける力すらなかった。なんとか、身体全体をひねって右を向く。
 ……凍るかと思うほどの戦慄が全身を駆けていった。部屋の質素な書机のところに、白髪白髭の老人が、あぐらをかいてこちらを見ているのだ。
 長い白髭が、ぱくぱくと上下に動き、音が発せられる。
「…………………………」
 ──……!?──。アキは、戸惑った。確かに老人は何か言った。だが、何を言っているのかまるでわからなかった。言葉が違うのではない。アキは老人の言葉を、言葉として聞くことができなかったのだ。
 かあっと、顔がほてる。きっ、と、唇を結ぶ。
 ──おちついて、おちついて……──。自分に言い聞かせる。
 老人の口が、再び、今度はゆっくりと動いた。
「……おや、……起きたのかい?……」
 ──ああ、「起きた」……そういうことを言っているのね。どうしよう、何か聞かなきゃ。……──。
 頭の中に、とたんに色々なことが沸き上がった。……ここは、どこ?私、どうしたの? あなたは、誰なの?……。いろんな考えがあふれてパニックにおちいりそうになるのを、なんとかこらえ、アキは言葉を返そうとした。
 ──ここは、いったいどこなの?──
 声に、ならなかった。
 ──どうしたんだろう!──。あわてて、もう一度言おうとする。
「……ああぁ……!」
 意味不明の、かすれた、叫び声が出るのみ。
 心臓が激しく鳴る。身体は震えてしまってまったく動かない。
 そのとき、アキは、心の中に不思議な「思い」が浮かび上がるのを感じた。
 ──心配しないで……怖がらなくていい──
 なぜ、こんな思いが? 当惑していると、老人がにっこり微笑むのが見え、次の「思い」が飛び込んできた。
 ──ここは、大丈夫……──
 明らかに、「思い」は老人から発せられていた。心に遠慮なく入り込むテレパスのやり方。
「きゃあああああぁっ!」
 アキは、思わず、懸命に、全身をひきつらせて叫んでいた。
 うつろな表情で、震えているうち、老人──マイネク──は、逃げるように、そっと部屋を出ていってしまった。
 だらしなく、身体を投げ出す。だが、興奮してしまって、眠れそうもない。

 マイネクは、ゆっくりとドアを閉め、大きく息をついだ。首を二三度ひねって、倒れこむようにゆったりとした椅子──自分の椅子に腰を落とす。
 イグゼム王城の敷地内にある、サミエルの神殿の裏に、魔法使いたちの会館がある。ここは、その中のマイネクの執務室なのである。
 執務室の奥は仮眠がとれる小部屋になっている。アキはそこに寝かされていたのだ。
「あの子、どうだった? 悲鳴が聞こえてきたけれど、大丈夫?」
 話しかけてきたのは、部屋で待機していたリドネだった。彼女は後家の、おばさん魔法使いで、マイネクの弟子であり、部下でもある。
「ああ、目は覚めたらしい。だけど、おびえてるようだ」
「そう?」
 リドネは、いつもと変わらない様子で、愉快そうに笑っていた。つられて、マイネクは苦笑いした。
 昨日の夜おそく、何か胸騒ぎがして、リドネは王城の裏の森へ行ってみた。そこで、生気をほとんど失い、倒れていた少女を見つけたのだ。
 小柄ながら、家事で鍛えた力のある彼女は、軽い少女をかつぎあげ、近くの自分の家へ運んだ。明け方を待って、王城用の物資が入ってくる裏門から、こっそり少女を王城内に運び入れた。
 かなりの魔法の力を発散していたからである。身体がやまぶき色に、うすぼんやりと光るほどに。
 ──これは、マイネク先生に見てもらわんといかん──。彼女はそう思ってマイネクの部屋の奥に少女を寝かせていたのである。
「それで、先生」
「……何だ?」
「この子はいったい、どういう子なんでしょうねえ?」
「さあ、はっきりしたことは言えんが、あの様子じゃあ、逃げているところなのだろう。……どこからか……」
 リドネが後をついだ。含み笑いをして、楽しそうに言葉を重ねる。
「……密航者かな? 大きなお屋敷の召使いでもしていたのかなあ?」
「何にしろ、ほっとけないな。あれだけの力を持っているならなおさらな」
 ガタリ、と音を立てて、マイネクは立ち上がった。テーブルについた両手の甲をうつむいて見つめつづける。
 ──もしかしたら、この子が『アキ』なのか……。──何度も思いついたことが、また心の中に浮かんできた。──……いや、はっきりしたことがわかるまで、動くことはやめておこう──そう考えて再び心の奥深くに押し戻した。
「それじゃあ、あたしは食堂部の方に行ってスープでももらってきますよ。おなかすいてるでしょうからね」
「ああ」
 マイネクは気の抜けたような返事をした。
 そのとき、
 ゆっくり二回、コン、コン、と叩かれる、ノックの音がした。
 右手をさっと振り、リドネを制するようにして立ち上がり、マイネクは自分でドアへ向かった。
 磨かれた真鍮製の把手式のドアノブを、重たさを確かめるかのようにゆっくりと、押し下げる。
 慎重に、そっと扉を開け、相手の顔を覗き見る。
 顔が見えたか、と思った瞬間、扉は外側からすいっと引かれた。ドアノブはマイネクの手から離れ、扉は大きく開かれた。
 ふいをつかれたマイネクは、相手の顔を見上げ、大きく目を見開いた。
「……エルム……さん……。何故!?……」
「お久しぶりです。マイネク先生」
 豊かに波うつ紫の髪と、群青の瞳を持った彼女は、きわめてていねいに、深々とおじぎをした。しかし表情は、眉一つも動かしてはいなかった。
 彼女はリドネより年上でマイネクの最初の弟子であり、十何歳かになる娘さえいた。それでも、マイネクと訣別した十数年前から、ほとんど何も変わっていないように見えた。かつては、水に関する魔法をいくつも解きあかし、その細い容姿とも相まって「海の女神」と呼ばれたほどの人。
「どうしてここに?」
 エルムは、冷淡な、事務的な口調で返した。
「命令です」
 黒で統一した、ワンピース、刺繍入りの肩かけ、靴といった、一分のすきもない魔法使いの正装だった。胸元には、イグゼム国の国祖であるサミエルの名が刻まれた青の宝石が輝いていた。
 今、彼女は、王室近衛兵のガルフの妻であり、めったなことでは王城に来ることはないはずだった。
「……何の、命令なのだ?」
「ここに、少女がいるはずです。国王からの命令でガルフが探しております。私は彼の命を受けて行動しております」
 マイネクは、エルムの瞳を見つめた。その輝きは、かつて弟子として魔法の修行をしていたころから、いささかの陰りも見せてはいない。
「……『少女』……? ここにはいないな」
「……ならば、よいでしょう。踏み込んで探すまでの権限は、わたくしにはありません」
 てのひらに脂汗がにじみでる。耳の底で自分の鼓動が響く。視線はエルムから離さない。
 ゆっくりと扉が閉められ、エルムの姿が消えていく。ほっと安心したつかのま、マイネクは背後で物音を聞く。
 カチャリ。
 ささやかな、だがはっきりとした音を立てて、仮眠室のドアが開かれる。栗色のゆるやかに波うつ髪が、おずおずと現れる。
 真鍮のドアノブは、まだ閉じられてはいない。扉の外、瑠璃色の双眸が光る。
「アキ!」
 マイネクは思わず、はじかれたように叫んでしまう。

 ……頭はずっと痛く、重かった。
 まどろみの中に落ちようと瞼を閉じると、闇の中に声がひびく。
「おまえが母を殺した……おまえが!」
 身を竦ませ、小さな悲鳴をあげて、目を開く。
 藍染めの麻で織られた枕を、じっと見つめる。自分の、細くやわらかな髪と小さな手も。
 ──ここは、どこなのかな?──
 さっきよりも、少しおちついていた。どこにいるのか、あいかわらずわからなかったけれど、ここの空気に嫌なにおいはしなかった。ずっと肌にチリチリ感じていた、「アレ」のにおいがここにはなかった。
 ただ、今いるところのまわりを包む雰囲気はひどい。幼いころから慣れ親しんできた、魔法の感触が告げている。──この建物は悪意に満ちている──
 アキは白髪の老人のことを考えた。──あの人からは、よこしまな感じはしない。……だが、気を許すことはできない。老人を見ると魔法で壁を作られているのがわかる。その奥を感じることができない。──
 拒絶されてるみたい。それなのに老人は強引に私の心に入ってくる!
 熱を帯びた血が、かっと頭に登ってくる。
 考えが混乱する。ここはどこ? 今はいつ? 何もわからない。どうにもならない。
 身体が「動かねば」と騒ぎだす。疲れ切っていたはずの腕と脚が、何の痛みもなしに動きだす。
 一歩ずつ、ドアへと歩きはじめる。ひょっとしたら何かの答えが、ドアの外に待っているかもしれない。
 顔の高さのドアノブに両手をかける。ぶらさがるように体重をかけると、ゆっくりとドアが開く。
 ──あれ?……海の匂いがする……──
 アキは思い直した。
 ──いや、違う……。これは魔法の香り……──
 部屋の反対側、檜造りの立派な扉の向こうから、誰かがのぞいている。
 視線と視線が合う。ブルーの両目に潮の香がただよう。
 身体がびくりと震える。わずかな扉のすきまから、暗闇が煙のように渦を巻いて入ってきている。
 とっさに心の照準を変える。白髪の老人、中年の女、扉の向こう。全ての人に障壁が張られている。彼らの本質が、まるで見えない。
 ──……やっぱり、ここはいてはいけない場所なんだ!──
 思った瞬間、太い声がかけられる。
「アキ!」

 ──……アキ?……アキ!……私の名前……──
 胸の奥から熱いかたまりがこみあげてくる。
 ……どうして?……私の名前を…………そう、この人たちも「アレ」の仲間だったんだ!──
 驚いた、老人の目。醒めた扉の向こうの目。
 全てが、私を追求して、離さない。
 ふるえる心を、怒りに変える。視線が部屋のものをすばやく追う。「心を置く」場所をさがすために。
 机といすが、まるで解体される時のように、部品ごとにきれいに壊れる。ふわりと浮き上がり、ゆっくりと渦を巻きはじめる。墨壺から流れた黒い液が、一すじの線を描いて、龍のように美しく回りだす。
 黄金色のオーラが次第に大きく、激しく輝き、炎のごとくゆらめいてたちのぼる。
 渦は部屋のもの全てを巻き込み、空間を切り裂き、嵐を起こし、なおもスピードを上げていく。
 はるか彼方を見つめるようなアキの表情。
 リドネは魔法の物理的な障壁を作り、かろうじて自分とマイネクを守っていた。
 ときおり、何かがバリアに衝突し、無数の破片となって砕け散る。破片は一度は床にばらまかれるが、すぐに舞い上がり、急速な流れの中にとりこまれる。
 マイネクは、必死の形相で、アキの魔法を隠そうとしていた。さっきまでもマイネクはアキを抑えていたのだ。そうしないと王城の魔法使いたちに知られてしまう。……それでも、エルムには気づかれてしまった。
 そして今も、マイネクはけんめいに魔法空間をカバーしていた。空間の地図を思い描きながら、全ての場所に力を封じる膜を作っていく。
 エルムは、低く、ゆっくりと呪文を唱えた。心の底によどむ、水の気をひきだす。たおやかな舞のように両腕を動かし、全身に気をまとう。
 そのまま、部屋に踏みこみ、竜巻の中へ一歩ずつ入っていく。
 ──何という力なの? …………哀しいまでの……──
 表情がわずかに、憂いにゆがんだ。
 左頬に、何かがかすめた。ひきつるような痛みがわきおこり、手をあてた。
 指先にぬめりつく感触がした。ちらりと目をやると、てのひらが赤茶色に濡れていた。
 ──血だ!──
 驚き、気がゆるんだ瞬間、身体がふわりと浮き上がる。反射的に結界を張るが、激しく壁に打ちつけられる。
 風の音がひときわ高くなり、全てのものが部屋の壁に向けて叩きつけられた。
 バーン、と打撃音が響き、パラパラと物の落ちる音が続いた。その音が終わらないうちに、アキは走りだした。
 素足のまま、風の精のように、空中に浮いて。
 かすかな着地音だけを残して、扉の向こうへ消えていく。
「待って!」
 深く、響く声はエルム。だが、彼女はまだ動けなかった。リドネがはずむように駆け出し、後に細身のマイネクが続いた。

 会館の廊下は、つやのある白色セメントの厚塗りで仕上げられたテラスになっていたが、昼前の外の明るさは入ってこず、暗く、ひんやりとした空気が流れていた。
 左へ行けば、サミエルの神殿の方へつながる。右に行って階段を一つ下りれば、食堂部や洗濯所など、いちばんにぎやかな場所へ行ける。
 ──さて、……あの子はどっちへ行ったものか……──
 マイネクは、髭に手をやり、考え込んだ。すでに少女の姿は見えない。──あの子、まだ小さかったな──と思う。小さいから探しにくいという訳でもないのに。
 「アキ」と叫んでしまったことが悔やまれた。──……こうなったらどうしてもあの子を助けてやらないといけない。……だが、どうやって?──
 あの子ほどの魔法の力だ。もしその気になれば私でさえ──エルムでさえ──、見つけることができるかどうか……。
 悩んでいると、外の明るい広葉樹の上から、かすかな、高い声で呼びかけられた。
「…………マイネクさん…………!」
 鈴を鳴らすような涼やかな響き。うす茶羽の妖精が、矢のように飛んできて、マイネクの背後にまわった。
 驚いて、目をこらす。
「……君は?」
「……アヤノ、と呼ばれます。港の森にいます。……昨日『あの子』を森で見つけました」
 柔らかな髪の束が、マイネクの耳元を後ろから軽くくすぐった。細い腕が耳介の上にもたれかかるように組まれる。
 ふと、その重みが消え、背中に流している外套のフードにさっともぐりこんでくるのが感じられた。
 神殿側の廊下から、軽装の兵士が二人、走ってきた。
 若々しい声をそろえて聞いてくる。
「……マイネク様。……少女を見ませんでしたか? 栗色の髪で、目立つ程の容姿だと言うことですが……」
「いや? 見ないが?」
 ごく自然に、嘘をついた。
「そうですか、どうもありがとうございます」
 兵士たちは、魔法院の副長に対し、敬意を表し、深々と礼をして食堂側の方へ走り去っていった。
 背中から、這いだしてくるものがある。
「……あぶなかったです。めんどう事はイヤなものですから」
 軽い手足の感触が、背中、肩、耳、と移り、小さな顔が頭の上からさかさむきに覗き込んできた。
「今の、貴族たちの私兵ですね。彼らも動きだしているようですね」
「何? そうなのか?」
「肩の紋章からすると、……アンダ、アルケスといった、王城周辺の人たちです」
「貴族連中まで、動いているのか……。いったい『あの子』はどういう子なんだ?」
「……デライの、子です。実の娘ではありませんが……」
 マイネクの表情が、さっと凍った。「デライ」という名前は、マイネクたちの間では、口に出すことさえはばかられるほど忌み嫌われていたのだ。
「チッ……なぜデライなんだ。よりにもよって」
 ──あいつは、娯楽と快楽をもって、貴族たちを支配している。女と博打を調達し、富をたくわえ、王族にまでも取り入っていると聞く。奴が動けば、貴族も王も動くという寸法か……!──
 まなじりがぴくりと動き、歯がくいしばられた。
 アヤノは、マイネクの耳に近づき、そっと耳打ちした。
「……あの子のいるところを、何とか探してみます。その間、おねがいします……」
「……わかった」
 マイネクは、たった一言で、彼女の意を察した。──イグゼム王城のサミエルの教会は、妖精を排除しようとしている。彼女は今から全神経を集中させて、魔法で「あの子」のいどころを探ろうとしている。その間は、私が彼女を守ってあげないとならない。──
 近くにきたリドネに目配せして、部屋の様子を見させた。エルムはまだ部屋の中だ。けがしていたようだし、物にうずもれてしまっていた。すぐには出てこれないだろうが、気がかりだ。
 アヤノは、さっと羽ばたき、天井近くに窪みを見つけた。強くはばたいて高さを合わせ、ゆっくりと着地した。茶色の羽は隠れきっていないが、一応は目立たなくなった。
 マイネクは、自然体をよそおって、テラスの柵に腰かけた。下の中庭を、さっきの兵士が小走りで横切っていった。
 ──彼女にまかせておこう。……アヤノさんと言えば、島でいちばん古い妖精で、カゾリフを案内したという伝説も残っている。魔法の力も私なんか足元にも及ばないほどらしい。しかし、彼女は人と触れ合うのを好まないと聞いていたが、何のために私の味方をしてくれているのか。──
 考えていると、いきなりまた、フードにもぐり込んでこられた。
「……場所わかりました。……食堂部の酒庫です」
「ありがとう」
 あせる心を抑え、ゆっくりと、マイネクとリドネは階段を下りていった。
 中庭から裏門への間は、お昼前でごったがえしていて、あちこちに野菜をいれたカゴが並べられ、前掛け姿の女たちが忙しげに立ち回っていた。
 目の前に保存用の食料庫がある。その地下が酒庫になっている。
 何人かが、マイネクの姿を認め、会釈して通り過ぎていく。どうしたものか、と思案していると、リドネに手をぐい、と引っ張られ、強引に酒庫の方へ連れていかれた。
 寒くて暗い階段を下りていき、湿った木の扉の前に立つ。さすがにこの時間は酒庫にはひとけがない。
「……私が先に行った方がいいと思います……」
 背中がわから、鈴の音のような声がした。宙にふわりと浮き上がったアヤノは、ほのかにだいだい色に光っていた。
「まかせるよ」
 マイネクは、そっと、少しだけ扉を開いた。

 かすかな泣き声が聞こえた。
 泣き声をたよりに、そっと羽ばたいていくと、いちばん奥の酒樽にもたれかかっている、アキをみつけた。
 暗がりの中、おさえきれずに、ぽろぽろと涙をこぼし、せきこむように嗚咽をつづけている。
 表情をゆがめ、髪をくしゃくしゃにして。
 それでも。……まだあたりかまわず泣きじゃくっても構わない歳だろうに、……必死に自分を抑えているようすが、アヤノにはとても不憫に感じられた。
 アキの瞳は虚空をさまよい、何も映してはいなかった。
 友達だった、暗闇に裏切られた。心の世界までも「アレ」に乗っ取られた。それだけで、もう残るものは何もない。
 ──生きられるだけ生きていよう──
 かつて何度もそう考えた。もう「生きられるだけ」の時間は過ぎてしまったのだ。
 このまま、ここでじっとしていれば、闇に沈めるのだろうか。ここちよい、夜の底へ……。
 やがて、死の存在さえも忘れて、ひたすらに涙を落とすだけ。
 ただひとつの、生きるよすがを残して。

 ひとつだけの、楽しかった記憶。
 ゆるやかに波うつ、紫に光る黒髪。
 すべてを受け入れ、あたたかく抱く、漆黒の瞳。
 ふりむくだけで、闇を溶かし、腕のひとふりだけで、光を呼び覚ます。
 うわごとのようにつぶやく。
「……ミン、ねえさま……どこへ行くの……?」
 アキの幻想の中の、ミンは答える。
「光の中へ行くの。遠くまで……。私はまだすることがあるの……」
「……ほんとに……?」
 そっと、のばした手は、二度、三度と空を舞い、かすかに腕に触れる。
 ながれこんでくる、ほのかな、あたたかさ。
 輝きに背を向けた、アキをかろうじて救いだす。
 身体の芯からじんわりとまどろみが染みわたり、アキは瞼を閉じる。
なにもかも忘れて、安心しきった赤ん坊のように、やすらかに、眠りへと落ちていく。

 アヤノは、ほっと、息をついた。
 魔法が功を奏したらしい。
 アヤノは、アキの魂の中で、ミンと触れ合っている部分を、ほんの少し開いてあげた。
 そして、ゆっくりと、眠りの魔法を動かした。
 わずかなすきまから覗き込んでいるマイネクを手招きする。
「……アキ、眠っています。だいじょうぶです……」
「そうか、今のうちに運んでしまえるかな。……」
 ちらりと、リドネに目配せした。リドネは自信ありげににやっと笑い、大きく二三度うなずいてみせた。
 いくつかある酒樽の中から、空のものを三つ探してきた。
 アキの、人形のような白い柔肌の、首とふとももに手をかけ、そっと持ち上げ、頭の上まで差し上げ、樽の中に下ろしてふたを閉めた。
 空樽を一つ、投げるようにマイネクへ寄こした。軽い感じで受け止めようとしたら、ずしっと重みが来て、よろよろと樽を手離してしまった。
 呆気にとられているマイネクとアヤノの前で、リドネは空樽と、アキの眠っている樽を、両方とも片手で、同じようにひょいと持ち上げて運び出した。
「先生は、それ運んでちょうだい」
 マイネクは、両手で大きく樽をかかえ、ようやくのことで動かすことができた。
 階段を昇り、まぶしい喧騒の中に出る。
 食料庫のほうに、竹編みの籠いっぱいの野菜とくだものが運び込まれていた。
「ルーディ!」
 リドネは、まだ若いが、女中の水に慣れた感じのする女に、声をかけた。
「その、大八車、ちょっと貸してね!」
「あ、リドネさん、何に使うんですか?」
「ちょっとね、荷運び」
 全然答えになっていない。が、若い女中は笑ってうなずいた。
 樽を三つ、軽々と荷台に乗せ、梶棒を取って歩きだした。
 調子良く、鼻唄まで歌っている。
 マイネクは、もうしわけなさそうに、後ろからついていった。
 ──どうやら、末端の方までは、命令が行っていないらしいな。王も貴族連中も、内密に行動していただけか……──
 少し、安心した。目の前の裏門を通り過ぎれば、後は何とでもなるだろう。
 この時間、裏門は、ずっと開けっ放しになっていて、人や荷物の出入りも多く、門番も装備を解いて、退屈そうに木の椅子に腰掛けていた。
 ガラガラと音を立てて、門をくぐる。兵士と会釈を交わす。瞬間、肌に緊張が走る。
 無事、通り抜けた! と思ったとき、後ろから門番の声がした。
「ちょっと待て!」
「何か?」
 いつもの笑みで、リドネは振り返った。
「その樽は何だ?」
 リドネは車を止め、三つの樽を連続でコンコンコン、と叩いた。
「空き樽ですよ」
「何に使うんだ?」
「ちょっと借りていきます」
「ほんとに空き樽か?」
 兵士が近づいてくる。
「そうですよ」
 いたって平然と、リドネは笑い、片手で三つの樽を、おなじような調子でひょいひょいひょい、と持ち上げてみせた。
わきのマイネクは、内心気が気じゃなかったが、つとめて平静なふりをしていた。
「許可は取ったのか?」
「女中長さんからもらいましたよ」
 口からでまかせだった。だが、番兵は、女中長と聞いただけで少しげんなりした顔をして、もう行っていい、というそぶりをみせた。
「よし、急ごう」
 マイネクのひとりごとのようなつぶやきに、リドネはうなずき、マイネクの屋敷の方へ車を進めた。

 王城の丘を下っていき、森へ入ったあたりで、アヤノはフードの中から這い出してきた。
 一度、あいさつもなしに森の方へ行きかけたが、思いなおしたように旋回して、ぱたぱたと戻ってきた。
 マイネクの眼前に上下にわずかに揺れながら静止する。
「……ミンのことを、フィビアが言っていました。アキのことも、知りました。……フェアリーたちは、みんな、あなた方の味方です」
 少し、目を伏せ、マイネクは応えた。
「……ありがとう……アヤノさん」
 ミンに少し似ている黒のストレートの髪が、風になびき、アヤノは自分の森へと姿を消した。艶やかな微笑みと、気になる言葉を残して……。
「……世界は、もうそこまで近づいてきています。……魔法の時代に幸多からんことを……」
「魔法の時代……」
 やわらかな睫毛をふせて眠っているアキ。いたずらげな笑みの中に無限の力を秘めるミン。次の時代の者たち……。
 マイネクは、残された自分の余生のつかいみちが、はっきりと記されたような気がした。
 多くの、若い魔法使いたちを育て、魔法の時代の端緒を開くこと。
 そのためには、今の腐りかけたイグゼムの王城にしがみついていてはいけない。

 だが、マイネクがケンネの鉱山町へ行くまでには、半年もの時間がかかってしまった。
事件の直後、マイネクはイグゼム国王リヴェロンの侍医に任命され、ある程度あった行動の自由が、奪われてしまったのだ。
 貴族連中の差し金であることはまちがいなく、マイネクの屋敷の回りには彼らの手の者と思われる男たちが常につきまとい、監視するようになった。
 マイネクは常にケンネ町へ行く機会をうかがっていた。ようやく脱出できたのは、リヴェロン王が崩御され、ライナン王が立って、ほとんどの儀式が終了したころだった。
 新王ライナンは、貴族たちの傀儡に過ぎなかった。

 アキはずっとマイネクの屋敷の中にいて、自分に与えられた一室からもほとんど出ようとしなかった。
 誰にも心を開かず、いつも鋭い魔法の気をみなぎらせ、どんな形であれ自分に接触してくるものを極端に拒んだ。
 ひとことも言葉を使わず、怒り以外の意志を外へ出すことはなかった。
 それでも、ときおり遠い目をすることがあった。
 そんなとき、アキは常に、東──ミンのいる方角──を見つめていた。なにもかもを受け入れる覚悟をしたような、しおらしい表情で、一心に、ずっと、遠くを見つめていた。

 マイネクが、王城のもとを脱出しようと決め、アキを連れていこうとしたとき、アキは雰囲気を感じたのか、すでにすべての仕度を整えて待っていた。
 自分で歩きだし、ひたすら東をめざした。どこへ行くのか、そこに何が待っているのか、アキには全部わかっていた。


夜の底は柔らかな幻〜第4章