夜の底は柔らかな幻〜第6章  

Phase 6 "kurenai"(495/Winter)

 冷たい北風が吹きすさぶ、くるぶしくらいまで雪の積もった草原に、ミンとソーウェ、ライサが集まっていた。
 魔法の訓練として、狩猟に来ていたのだ。狙うものは純白のゆきうさぎで、弓やワナのかわりに魔法の矢を使う。
 まず、雪原の上にうさぎを探すのが難しい、昼過ぎに少しだけ降った雪が足跡を消してしまっていたので、しかたなく魔法で動物の雰囲気を探っていた。
「……もう近くに獲物はいないみたいだね」
 いちばん経験の多い、ソーウェがぽつりと言った。
「そろそろ帰りましょう。ふぶいてくるかもしれないわ」
 ライサは、毛糸の帽子を取り、ささっと雪を払い、もういちど深くかぶりなおした。
 頭上には暗灰色の重たい雲がたれこめ、遠くかすかに雷が鳴っていた。
「『冬の雷は、吹雪を呼ぶ』、だね……」
 ミンはぽつりとつぶやき、森の出口、町へつながる方をじっと眺め、自分のリュックを右肩にかけた。
 歩こうとすると、凍りついていた厚手のコートが、パリッと音を立てる。
 めずらしく、今日はアキと行動を別にしていた。
 アキも、年が明ければ町の子といっしょに魔法以外のことを学び、料理屋や酒場などで町の仕事の手伝いをすることになる。いつまでも、二人べったりしているわけにはいかない。
「ミンねえさま……今日は一人で行ってきていいわ。あたしはおるすばんしてる。寒いし、あたしはまだ小さいから雪原ではみんなに取り残されそうだもの」
 ──でかける時、アキはこう言っていたね……──
「ねえさまも、訓練しないとね。今日は狩猟の訓練なんでしょ?」
 野外での修行を、ミンはとても好きだった。森の生活でさえも苦にならないほどだったから。
 ──でも、今日は朝から夕方までいて、結局、猟果は二羽だけだったね……。何も、無理して出てくることはなかったな……──
 ミンの心にアキの寂しげな様子が浮かび、少し胸が痛んだ。今頃アキは何してるんだろう。……不思議と、ぞっとするほどの不安を感じる。魂の底から伝わってくる切迫。
 冷気が鋭く頬を切っていった。
 草原の入口の方に人影が見えた。ひどく慌てている様子で、はく息の白い煙をもうもうと上げながら、ジャリジャリと雪を踏み締めて走ってくる。
「ミンさん、……ミンさんここにいたの!?」
 駆けつけてきたのは、リドネだった。外套をつける間も惜しかったのか、寒そうな普段着のまま。
「ミンさん! 早く帰ってきて! ……アキが、大変なのよ!」
「アキが!?」
 ミンの全身に緊張が走る。
「……アキが、どうしたの!?」
「どうしたもこうしたも、……またふさぎこんじゃったのよ。あたしたちじゃ、もうどうにもならないのよ!」
 顔をこわばらせ、ミンはキッとソーウェを見た。
「ソーウェさん。先にいくよ!」
「わかった、僕たちも後で行く。ミン、君は急げ! リュックは持ってきてやるから」
「ありがとう!」
 ミンはリュックを足元に投げ出し、もう一度も振り返ることなく、雪原を力強く踏みしめ、走り出した。
 疾風のように馳せる。
 降り始めた雪が、サラサラと、長い髪をかすめていく。
 手袋をしていても、指の先が切れそうに痛い。寒さが脚や腕をしびれさせ、ミンの心にあせりが生まれる。
 ──アキ、……いったいどうしたの!? こんなことなら、……君を一人きりにはしなかったのに……!──
 町の入口をあわただしく駆け抜け、急坂を足を叩きつけながら走り下りていく。
 四つ辻をぎゅっと踏み締め、右に折れ、ゆるやかな石段を二段越しに登っていく。
 階段の上に見える、アキと自分の住んでいる建物に、視線がくぎづけになる。激しく心臓が打ち、白い息がはずむ。けたたましく玄関を開け、自分たちの部屋の前に立つ。

 ミンは、そっと、ドアを開けた。
 中は、しんと、静まりかえっていた。
 暗黒によどんだり、鈍くかがやいたりする、無数の破片が床全体にばらまかれていた。
 ──鏡……、私の手鏡だ……──
 ミンは、はっと気づいた。散らばっているのは、割れた手鏡。窓や天井や壁を、様々に映している。
 ベッドには、アキが横たわっていた。……泣き疲れたのだろうか、髪は千々に乱れ、頬は錆色に汚れ、まぶたは赤く腫れていた。
 凍ってしまいそうな寒さのなか、肌着一枚だけで倒れていた。
「……アキ……、アキ!」
 ドアのところから呼びかけ、中へ入ろうとする。
 眼が、すうっと、開かれる。とびいろの瞳がミンを捉える。
 ──……よかった、……生きてた──
 そう思う間もなく、アキは無言のままベッドから立ち上がった。
「……いけない!」
 ミンが叫んだときには、アキはもう小走りにミンの胸にすがりついていた。
 柔らかな素足が、鋭い破片に噛まれ、鮮血が床にぽたぽたと滴り落ちる。
 腕を回し、小さな頭をそっと抱えこむと、嗚咽に、細かく身体が震えていた。
「……アキ、……どうしたの?」
「……ミンねえさま……。ごめんなさい。後で話します……」
 アキは細い腕できゅっとミンの腰を抱きしめた。
「……ねえさま、今は、こうしていて…………」

 ちろちろと赤くくすぶる火鉢を囲み、ミンとアキは身を寄せあって暖をとっていた。
 お互いの表情だけが、闇の中、紅に浮かび上がる。
 ミンは、そっと、アキの足に手を当てた。さらし布が痛々しく巻かれている。
「アキ、……痛む?」
「だいじょうぶよ、ねえさま……」
 アキはそう言ったが、足を地につけず、けんめいにかばっているようすが、はっきりと見て取れた。
「……なおしたげるよ」
「うん……」
 明るい声で答えて、アキは甘えるように、身体をそっとミンに預け、まぶたを閉じた。暖かい重みを感じる。
 うなじから眉間に通る風を想像し、ミンは魔法の視覚を開いた。傷を直す呪文を小箱の中にさがす。
 ──アキの力をもって、アキの傷を直すんだ。……この子を弱らせるようなことはない──
 自分の魔法についての考えを、頭の中にめぐらせる。
 ゆっくりと確実に、呪文に力をふきこんでいく。
 ──しかし、私の力を使えば、やはりアキの力を吸い取ってしまう……。どこか魂の奥深く、つながっているところがわかれば、アキを衰弱させることはないのに……──
 安心しきった、かすかな微笑みを見せ、もたれかかってくるアキ。
 激しい吹雪が、よろい戸に打ちつけていた。ごうごうと鳴る風に、なぜかかえって心は落ち着いていく。
「ミンねえさま……?」
「どうしたの?」
「あの、……鏡、割ってしまったの……、ごめんなさい」
「いいの。気にしなくて。……でも、どうして割れたの?」
 ガラスの飛び散り方は、手鏡を床にたたきつけた感じだった。
 手鏡は、町に来て一周年の記念にと、サイアルから贈られたものだった。鏡の裏には踊る龍で文字をかたどった、ケンネ町の紋章がデザインされていた。
 しばらくの間、アキはためらいを見せ、あやふやに視線を逸らしつつ、時折口を開こうとして、頭をゆるく振っては止めていた。
 やさしく見つめ、何も言わず、ミンはアキが自分から話し出すのを待った。
 風の音が鋭くうなり、窓を打つ嵐がひときわ大きくなる。
 聞き取れないほどのささやき声で、アキはぽつりと言った。
「……あたしが、割ったの……叩きつけて……」
「そうなの……」
 アキはミンの腕をそっとつかみ、自分の頬をすりよせた。柔らかな温もりと、わずかに濡れた感触。
 桜色の細やかな唇がゆっくりと動く。かすかな息づかいが音に変わる。
「ねえさま……」
 ひとことずつ、アキは話し始める。

 早朝の晴れ間がほとんど雲におおわれ、雪が心配された今日の朝のこと。
「行ってくるよ。るすばん、気をつけてね」
 明るい言葉を残し、ミンがドアを閉めた瞬間、アキはとつぜん、息ができないほどの部屋の空気の重たさを感じた。
 廊下のきしむ音が一歩ずつ遠のき、外への扉をばたんと閉じる音がわずかに響く。かすかな残響が消えたとき、室内はまったくの静寂につつまれる。
 ──ああ、行ってしまったのね……──
 ……壁まで、天井までの距離が、ひどく遠い。いつもは狭いとも感じていたのに、大きな存在がひとつ消えると、ぽっかりと埋めることのできない穴が開いたよう。
 肌を侵食するような寒さを覚え、アキは布団の中にもぐりこんだ。
 身体をまるめ、すこしずつしとねを暖めながら脚を伸ばす。たたんだ腕で顔を守るようにして、アキは横向きになった。
 ぼんやりとただ、何もない空間を感じる。反対側にねがえりをうつと、白い無機質の壁があるだけ。
 かなり長い時間、壁を見つめ続ける。
 ──昔も、こんなこと、あったわ……──
 過去の記憶が鮮明によみがえってくる。かつて住んでいた殺伐としたところ……。

 夜は嬌声と喧騒のるつぼとなる娼館も、昼は不気味なくらい静まり返っていた。夜の蝶たちは眠りに落ち、起きている者といえば、アキの他は小間使いたちぐらい。
 ミンと、夢の中で出会う前のある春のこと、アキは娼館と自分の住む建物の間にある、広い赤土の中庭で、何も考えず土をいじくっていた。
 誰も手入れする者がいないので、雑草が無造作に生えていた。冬の間ずっと霜に耐えて、ようやく咲いた小さな黄色い花を、アキは無表情に指の先でもてあそび、無残な姿に変えていった。
「……アキ……?」
 背後から、少し媚びるように鼻にかけた、低い女の声で呼びかけられ、アキは横すわりのまま、肩ごしに後ろを見上げた。
「……ロルターか……」
 アキの憮然とした言い方は、まだ甲高い声色には似合わず、ロルターは目を細めて微笑んだ。
 彼女はかなり年長の遊女で、目もとに艶があり、鼻すじがすらりとして気品があった。しかし、肌はおとろえを感じさせ、素顔で髪を乱し、ローブだけを身につけた様子は、積み重ねてきた生きる疲れを思わせた。
「どうしたの? 起きてていいの?」
「今日は、休みなのよ」
 そう答えて、アキに身を寄せるように、ロルターはしゃがみこみ、雑草にそっと手を当てた。あでやかな睫毛を伏せ、骨ばった長い指で花びらを愛でる。
「……きれいな花ね」
 誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやく。
「うん、きれいね。……何の花なの?」
 アキの問いに、ロルターは唇をとがらせた。
「……きれいな花よ」
 意外な、冷たい答えに、アキの心はゆれた。
「……え……?」
「『きれいな花』は『きれいな花』よ。それ以外の何でもないのよ。名前なんてどうだっていい。……いろんなことをたくさん知ろうなんて、思わないほうがいいのよ」
 返す言葉が見つからず、アキはうつむいて黙りこむ。ロルターはさっと立ち上がり、遠く空の方を見つめたまま、感情のない口調で言った。
「……アキ、……この世には知らなくていいことなんて、山のようにあるんだから……」
 さみしい後ろ姿を残して、ローブをひきずるように歩き去る。
「知らなくて……いいことが、ある」
 同じ言葉を棒読みに繰り返し、アキはいつのまにかまたさっきの花をいたずらに玩んでいた。
 記憶の底に、永遠に消えない、彼女の哀しみだけが残った。

「知らなくて、いいことが、ある」
 アキはうつぶせになり、枕に語りかけるように、つぶやいた。寒さに、言葉までも白く濁る。
 身体全体にけだるさを感じ、アキは眠るつもりで目を閉じた。
 まぶたの裏に、微小な光る粒が集まった乳白の霧が浮かび出る。
 ──なぜ? どうして魔法が動いてるの?──
 あわてて、アキは目を開けたが、そのときにはもう視界いちめんに霧が広がっていた。
 しっとりとした霧は、いくすじもの細いうずを作りながら、やさしくアキを包んだ。アキの回りを巻くうちに、霧の中にちいさな黒い点が無数に現れ、やがて少しずつ集まって、黒い大理石のような珠となった。
 霧がすうっと、空色に晴れた。
 珠は透明な七色に彩られ、同じ色の影をエナメルのような白の床に落とした。影はいくつも重なりあって、極彩色に流れていた。
 ゆっくりと、透明な珠は動き、丸い影もあわせて動く。
 あたたかな風が吹いてくる。
 そっと目を閉じ、開くと、春の花の野にたどりつく。
 ──……なつかしい、場所ね。いつからだろう……そうだ、あたしが初めてここに来た日に、ミンねえさまと一緒に遊んだんだ……。
 ……今日は、ねえさまはいない、のね……──
 アキはあたりの景色を確かめるように眺め回し、一歩ずつ踏みしめるように、小屋の方へ歩いていった。
 遠く、遠くに海が見える。太陽の光を受けてきらめく。
 まぶしい桜色のかすむ花畑をみつめ、わずかにきしむドアをひらいた。
 誰かいるとは、思いもせずに。

「……アキ……」
 暗い、部屋の片隅から、そっと呼びかけられる。アキが振り向いても、そこには空間がよどんでいるだけ。
「……アキ、会えて良かった……」
 かすれがちの、ささやき。
 聞いたことのないはずの、ひどくなつかしい声色。
 記憶のはるかかなたで、つつましやかに、しかし、確かに鳴っている。
「しあわせなの? アキ?」
 外の輝きが窓の形にしのびこみ、小屋の中のかすかにひなびた空気が、無数の点になって天へと昇るのが見えた。
「……うん……」
「そうなんだ……」
 昼すぎの日陰は、時間が止まっている。優しい静けさに身をひたそうと、アキはまぶたを落とす。
「……よかったね、アキ……」
 閉じた瞳に、ぼんやりと夢の影が現れる。
 大きくゆれなびく栗色の髪は、空をめざして育つ若木の色。つややかな白肌は、何者にもけがされない気高さ。
 暖赤色の風につつまれ、アキはやわらかく抱き締められた。
 胸が、きゅっと痛む。
 ああ、これがあたしの忘れていた……

「知らなくていいことなんて、山のようにあるんだから……」
 とつぜん、ロルターの声が、心に割り込んできた。
 ──知らなくて、いいこと?……──
 風が止み、足元の床が急激に崩れていく。
 ──あたしの、知らなくて、よかったこと……──
 母が、いること。そして、ただ一度だけ会ったそのときに、冷たい恐怖を感じてしまったこと。
 ぞくっとする寒気を感じて、アキは目を開いた。
 気味の悪い、灰色がアキを取り囲んでいた。どこに何があるのか、広いのか、狭いのか、まるでわからない。
 よく練られた粘土のような質感がある。息苦しい怖さを感じる。
 手足が、ひどく重たい。
 ──永遠に、この外に出られないかもしれない……──
 心がとけるほどの、恐ろしい想像が頭をよぎる。
 ──……ここは、どこなの、……助けて!……──
 声に出さない、胸の奥からの激しい叫び。
 しかし、誰が助けてくれるというのだろう。ねえさまはいない。そして母は……。
 母は、死んだ。
 これが、アキの、知ってしまったこと。
 暗灰色の中に声が飛び交う。こまかに、ざわざわとたくさん。聞きたくない、という願いをあきらめさせるように、しだいにリズムが重なり、はっきりと響く言葉になる。
「あんた、……誰よ! ……あんた誰よ!……」
 軋む両腕を必死に持ち上げて、耳を押さえる。眉間にしわを寄せ、ぎゅっとしっかり目を閉じる。
 全身の力を使い、脚を折り曲げ、ひざを胸に合わせ、丸くなって身を守った。
 耳の内側で低く風のうなりが響き、脈動を指に感じた。
 ひたすら、外界を拒絶して、長い、長い時間が過ぎ去るのを待つ。
 幾度も、ためらったあげく、そおっと少しだけ目を開いてみると……。
 眠っていたはずのしとねに、赤子のように縮こまり、汗をかいて寒さにガタガタと震えていた。

 身体を、少しずつ伸ばす。割り入ってきた冷気が、濡れた服を通して肌を突き刺す。
 ──……悪い夢を、見たわ。汗かいたから、着替えなきゃ……──
 少ししびれた脚で、ベッドを下り、小さな足を木の床につける。瞬間、足元にじわっと闇が広がり、アキは悲鳴を上げてその場に立ちすくんだ。
 触手のように、四方へ暗黒が走っていく。
 闇の手は樹木のように幹から枝を伸ばし、増殖しながら壁をかけあがり、天井を侵し、みるみるうちに部屋全体を覆ってしまった。
 たちまち、べっとりと墨に塗られたように、何も見えなくなる。
 足が釘づけになる、一歩でも動けば、深い闇の中へ落ちていきそう。
 低く、うなるような歪められた笑い声が、騒々しくわいてくる。右に、左にと飛び交い、時折は耳元をかすめ、わめきたてて過ぎる。
 何よりも、忌まわしい、「アレ」の笑い。
 支配欲、暴力、金銭欲、人間の汚穢を全ておもてにさらしたような意地汚い太い声。
 ──どうしてよ! もう来ないでよ!──
 とりはだが立つ。憎悪の念が背すじを駆ける。
 鈍く、暗い赤に光って、音のカタマリが少しずつアキの眼前に集まっていく。輝きを増し、つま先からゆっくりと人の姿をかたちづくる。
 細い小さな体を、けばけばしい朱の服に包み、人形みたいな端正な顔を無理に化粧で飾りたて、とびいろの瞳は濁り、妖艶な魔女のよう。
 まぎれもない、もうひとつの自分の姿。
 港にいるとき、いくらでも見た、疲れた顔をした女と同じ。
 アキは漆黒の中、媚び、いやらしく笑う、鏡像と立ち向かった。
 ──……これは、……あたしじゃない……!──
 かざした右手に、青白い光が宿る。
 白い光の粒が残像を描いて集まり、まぶしい光の珠になる。胸奥から昇ってきた熱い怒りが指先にほとばしる。
 闇を貫き、閃光が走った。
 高く澄んだ、鏡の割れた音が、幾度も余韻を残し、もう一人の「私」はこなごなになった。
 アキのまわりに、ばらばらに飛び散る。
 大きな破片は、大きな顔を映し、小さな破片は、くすんだ瞳を映し、大勢の、もう一人の「私」が、アキを見ていた。
 黙ったまま。ずっと。
 無念さと、口惜しさを視線にこめ、うらみがましく、睨んでいた。
 ──これが、現実……ひょっとしたらあたしの姿……──
 目を合わせると、しあわせな夢が終わってしまうのかもしれない。
「昔のあたしなんて、もう嫌いよ。あたしを見ないで!……」
 叫んだ途端、アキをささえていた闇の底は崩れ、急激に、無限の距離を落ちていった。

 あとのことは、覚えていない。……何かに向けて、必死に魔法をぶつけていたことだけが、記憶に残っている。……

「七色の光が見えて、そっちに走っていったら、ねえさまが助けてくれたの……」
 もう、かなり眠たそうに、ゆっくりとアキは話を終えた。
「ありがとう……ミンねえさま……」
 時々、遠くに聞こえた雷も、どこかへ行ってしまい、外はしんしんと雪のつもるだけの、静けさをとりもどしていた。
 アキはちいさな両手をミンのひざの上に揃え、その上に頬をおとして安らかな眠りへと落ちていた。
 守るように、そっと両腕でアキの肩を抱え込み、いとおしく背中をさする。髪の先がしなやかに、指先にほんのり触れる。
「……アキ、……しあわせ……?」
 ひとりごとのようなミンのつぶやきに、アキは、かすかにうなずいたように見えた。
 ──この子は、ずっと戦っているんだ。……自分と……──
 視線を床に落とし、ちょっとだけためいきをつく。
 ──私は、どうなんだろう。「私」が何者なのか、全然わからないままだね。……手鏡をしまいこんでいたのは、自分と向き合うのが嫌だったから……。アキよりも、弱いね……──
 自嘲するように、苦笑いする。
 ミンはアキの深い寝息を確かめてから、腕をうなじと膝裏にかけ、そっとベッドへと運んだ。
 ──私はもっと自分のことを見つめないと。……いつまでもアキに重荷をかけてはいけない……──
 心おちつかず、ミンは目が冴えて、いつまでたっても眠れなかった。

 翌々日、吹雪もすっかり晴れて、アキは完全に元気を取り戻し、ミンといっしょに雪原へと出た。
 膝くらいまで埋まる雪の野は、日の光を受けてきらきらと輝く。少し溶けて濡れたところが、ひときわまぶしく瞬く。
「ミンねえさま、あたしこんな雪見たの初めてよ」
 ミンは紅潮した笑顔で返した。
「私も久し振りだね。ここは山のふもとだから、けっこう降るのかもしれないね」
 元気よく、アキはミンの前に立って、雪をかきわけながら進んでいく。
「あぶないよ、アキ。あんまり急がないで」
「大丈夫、ねえさま。ほら」
 かざした手の下で、ぱん、と白雪が跳ね、アキの前五歩くらいに、細い通り道ができる。
「……すごいね、雪の魔法?」
「うん。でも、難しいことはしてないわ。ただ力を使っただけよ」
 得意気に、ミンへ向かって片目をつむってみせる。
「あれ? ……もしかしてあれは?……」
 アキの視線を追っていき、ミンも眩むような雪原の上に、ちらちらと動くものを見つけた。
「雪うさぎだ! よーし、まかせといて」
 にこっと笑って、ミンはくちもとに手の甲をあてた。目標を目で追い、獲物までの魔法の線をくっきりと作っていく。
「えい!」
 しゅっと、人指し指と中指を合わせて、腕を伸ばして雪うさぎを指す。目にとまらないほどの速さで、魔法の矢が突き立つ。
「当たったの?」
「うん、たぶんね」
 肩をすくめて微笑んだミンを見て、アキは矢の飛んだ方向へと走り出した。
「……あ……!」
 ミンが叫ぶ間もなく、アキは勢いあまって雪しぶきをあげて倒れてしまった。
 あわてて、駆け寄る。アキは自力で起き上がり、全身をぱんぱんとはたいて綿雪を落とし、苦笑いしてみせた。
 自分の倒れたところの、土の跡を指さす。
「……ミンねえさま、これ見て」
「あら……!」
 凍りついた黒土を割って、固い緑の芽が地上に顔をのぞかせていた。
「草の芽だ……」
「すごいね、……こんな雪の中でも生きてるんだわ……」
 しゃがみこんで、アキは瑞々しい、厚い葉肉に触れた。何度か、生命のありかを探るように、やさしくさすってみる。
「……春になったら、また会おうね」
 そっと声をかけて、踏みつけないように気をつけて、また元気よく先へと走り出す。
 春はまだまだ遠かったが、ミンにとって、太陽の光はやわらかく、ここちよく感じられた。
 風もこころなしか、暖かだった。


夜の底は柔らかな幻〜第6章