夜の底は柔らかな幻〜第9章  

Phase 9 "keep a light burning"(496/Autumn)

夏の終わりのある日、暑苦しさと緊張で、マイネクはずっと眠りにつけずにいたが、寝返りをくりかえしているうちに、いつの間にか、深い夢に落ちていた。
 暗闇の中に、凍り付いた表情で、エルムが立っていた。魔法の青白い光が、彼女だけを照らしていた。陽光を映す水面のように、さまざまな青が、揺れる髪を彩る。
「久し振りです……マイネク様……」
「君は、……エルムか?」
「はい、……エルム・ユート。あなたの弟子です」
 声が暗闇のかべにこだまする。
「なぜ、ここにいる?」
「あなたを、捕らえるために……。もう、わたしは、あなたのすぐそばまで来ています……」
 エルムのりんかくが、ゆっくりとぼやけて、闇の中へ溶け込んでいく。
「何だって? おい、エルム!」
 手をのばそうとするが、肩が重くて上がらない。追いかけようとしても、足が、地面に釘打たれたかのように、動かない。
「……マイネク様……」
 声が、かすれて消える。姿が、闇に呑まれていき、かろうじて見えていた青い瞳も、やがて、色を失って消えていく。
「……エルム!」
 マイネクは、撥ね起きた。
 白いシーツの上に、老いてやせた、自分の身体があった。腕を、しげしげと眺める。「現実」であることを確かめる。
 背中を、やけに冷たい汗が流れ落ちる。全身に、戦慄が走り、とりはだが立つ。鋭い視線で、何もない壁を眺めつづける。
 夢から覚めたのに、エルムの雰囲気が残っていた。
 ──彼女は、近くにいるに違いない──
「……我々を探りに来たのか……。それとも私に何かを言いに来たのだろうか……」
 骨張った指で、指定された日までの数を数える。残された日の少なさに愕然とする。

「ミン、……あなたはどこまで空間を飛べるのよ!?」
 いかにも魔法使いらしいセリフがライサの口から飛び出し、彼女は疲れたように両ひざを落としてぺたんと草原の上に座りこんだ。
 あきれたように首をかしげ、力なく笑う。
「……どうにもならないわ。ミンとじゃ訓練にならないわよ」
 ライサの口調はあきらめとも腹立ちともとれなかった。
 ミンは、ライサのことをまるで気にしないという風に、自分自身の魔法に対して薄く微笑んでいるかのようだった。
「アキもいるし、……反則だわ」
「……それは違うよ。アキとはいつもいっしょに行動しないとまずいんだから」
「わかってるわよ。わかってるけど言ってみたくなるだけよ」
 はき捨てるように、ライサは言った。
 訓練では、魔法空間での「鬼ごっこ」をすることが多かった。
 魔法使いどうしでは、空間が戦いの場になる。相手をきちんと追いかけることができ、適切に逃げられる方が一方的に強い。
 ミンの「空間」はきわめて広く、緻密だった。アキはミンの心を通じてその空間の全てを知ることができた。
 ライサは相当のショックを受けた。自分しか行けないだろうと思っていたお気に入りの場所まで彼女たちに暴かれたのだ。
 ──仲間にしていると、こんなに力強い子もいないわ。……だけど、ライバル、と思っちゃいけないわね。……あたしとはすでに世界が違うわ……──
 来るべき日にそなえ、自分がいったいどれだけのことができているのか、ライサにはいらいらするほどのあせりがあった。

 ミンには、さむけがするほどの怖さがあった。アキとのはっきりしたつながりを自分ではどうすることもできない。いまだに、魔法を使えばアキの魂をゆりうごかしてしまう。
 アキと魔法空間を探索する。
 頬を切る冷たい魔法の風を受け、マーブル模様のよどみの中へ飛び込んでいく。身をするどく翻し、銀色の矢となって天の方角へと暗黒を切り裂く。
 新しい場所、未知の空間でも、ひるむことなく突き進める。疲れを覚えることもなく、飽きることもなく、無限に好奇心と楽しさをわきたたせながら。
「ミンねえさま、……潮の香りがするわ」
「……? どうしたの、アキ?」
「この地域は、海の雰囲気がある。……覚えがある匂いなのよ。エルムが近くまで来ているのかもしれない」
「そうなんだ」
「……帰ったほうがいいかもしれないわ。それとも、調べる?」
 乳白の霧を伝い、不安げなアキの心がミンに流れ込んだ。
「……今日は帰ろう」
 霧は明るい輝きを帯びる。
 ミンは、ずっと自分のことが見えずにいた。
 自分自身の魔法空間での姿が、自分の魔法の目をもってしても完全にはわからない。まして、今はアキに気をつかいながら魔法を動かさないとならない。
 ──私がアキの力を奪うのは、自分の力だけを使う方法を知らないからだ。……だけど、「自分の力」がどこから来ているのか、私にはまだ知ることができない……
 やはり、いちどアキから離れないとならないのだろう。……そして自分の姿が完璧に見えたとき、もういちどアキのもとへ戻ってくればいいのだ──
 アキは、まだときおり、過去の記憶のためか、わけもなくふさぎこむことがあった。それでも、ふだんはとても明るくて、言葉は少ないけれどいつも笑っていて、ミンを安心させていた。
 アキはもう、私がいなくても大丈夫だろう。……むしろ、こんな状態のまま、戦いなんてことになってしまったのが、ひどく心もとない……。

 サイアルは、厳しい表情で怒鳴りながら、民兵の指揮に当たっていた。
「隊伍を乱さぬように! 命令があるまでは潜み、命令があれば一気に行動しろ!」
 口酸っぱく、基本を教えこみ、ようやく少しは隊らしくなってきた。どの程度力が発揮できるか、未知数だが文句はいえない。
「いいか! 我々を護るのは我々自身だ! ケンネの誇りを失わぬよう、戦おう!」
 かたわらのアーガスが檄を飛ばすと、民衆は一斉に鬨の声をあげた。
 兵たちの数は少なかった。収穫の季節が近い。農村から男手を徴集することはできない。集まったのは坑夫たちの一部と、職人街に住む若い衆ぐらい。
 ──しかし、条件は向こうも同じはずだ……──
 サイアルは考えた。
 ──そうなると、お互い兵力はアテにならんな。最初の俺たちの争いが決め手になるな……
 にしても、向こうはなぜこんな時期を指定してきたんだ? 兵で勝負をつけるつもりがないのか、……それとも魔法の戦いに自信があるとか……──
 ぎゅっと右手を握りしめて、不安を払った。
 サイアルにしても、魔法使い同士の戦いがどのようになるのかはわからない。
 腰の「月虹」に視線をやる。
 ──こいつがモノをいうことも、ありえないとは言えんな……──

 闘いの三日前の夜、盛大な壮行会が町役場二階のホールで行われ、アーガス、ディアナといった町の首長、魔法使いたち、兵士頭などが集まり、互いの決意を確認しあった。
 思い切り酒を飲みたい、アーガスやサイアルたちは残り、他の魔法使いたちは階下の集合所へ移り、ミンとアキは食事だけ摂って、先に自分たちの部屋へ帰っていた。
 ベッドに腰かけ、細い脚を組んで、アキはぼおっと部屋の隅の方を見つめていた。
「……ミンねえさま?」
「なあに? アキ?」
「あたしたちも、戦いに行くんだよね……?」
「うん……」
 ミンは、アキの見つめている方向を眺めた。ぼんやりと暗く、ずっと見ていると闇に飲まれそう。
 マイネクからは、「来い」とも「来るな」とも言われていなかったが、ただ、ミンだけは、行く決意をしていた。いろいろな想像を重ねてみた結果である。
 ──行かないで、ここにアキと二人でいて、マイネク先生たちが捕らえられたとしたら……私たちは先生を見捨てて北の国へ行くべきなのか? ……とてもそんなことはできないだろう。
 先生たちと運命を伴にしているのだから、戦いには一緒に行ったほうがいい……──
 “何かをしなければ”と、心の底が、また少し疼いた。
「ねえさま?」
「なあに?」
「……もし、戦いになったら、……あたしのことは構わなくていいわ」
「なに言ってるの。……私はいつでもアキのことがいちばん大切だよ」
 アキの瞳が、ぱっと輝いたが、それを悟られまいとするようにアキは横を向いて視線をそらしてしまった。
「でも、……いつまでもそんななのはよくないわ。ミンねえさまは、いずれここを出るのでしょ? ……あたしは大丈夫よ。ミンねえさまと会うまでは、ずっと独りだったのだもの……」
 ──……「独りだった」だなんて……。辛いことがいろいろあったのだろうに……。大丈夫なの、ほんとに?──
 アキの言葉はミンをよけいに心配させた。だが、ミンは心のどこかで安堵を感じていた。……今は、アキの背伸びした気丈さに甘えてしまいたかった。……どうせ出立の日はいずれ来るのだから。
「だけど……戦いでは別だよ。私はいざとなったらアキを守るから」
「……うん、……でもミンねえさまも、生きててね。あたしも、今は死にたくないって思える。昔はそんなことは考えたこともなかったのにね……」
 目の端に、わずかに涙をにじませる。

 星々が藍の時(午前二時頃)を示し、マイネクはふかみどりで統一した、肩当てや外套といった魔法使いの正装で、そっと自分の部屋を出た。
扉をそっと閉め、廊下を外へ向かった。通路の途中に、ミンとアキの部屋がある。
 ──ミンたちを起こすべきか……いや、私は彼女たちに何も言っていない……。今ならまだ巻き込まずにすむかもしれない……──
 しかし、思いに反し、ゆっくりと、扉は開かれた。
「……マイネク先生……」
 薄手の、ゆったりした群青の服に、マントのような布をつける。略装ながら、魔法使いの恰好で、ミンが立っていた。
 その後ろには、普段着のままの、アキがついてきていた。
「……もうみんな、集まっているね……」
 ミンの声には、深みがあった。表情は余裕さえ感じさせる。
「そうだな……。だがミン、君はまだ来るかどうか選べる。……君は、……」
 アキに聞こえないように、声のトーンを落とす。
「魔法の力を抑えないとならない。わかるな」
 ミンは、マイネクをじっと見つめ返した。視線の力は強く、マイネクをたじろかせるほど。
「マイネク先生の、近くにいるよ……」
「わしが、いちばん危ないんだぞ。わかってるのか?」
「……わかってるよ」
「……アキは?」
 マイネクの問いかけに、アキはだまってミンの腕をつかみ、薄く微笑んでマイネクを見つめた。
 外は、天高くの満月の明かりで、かなり明るく照らされていた。階段を下りると、そこでサイアルが待っていた。
「サイアル……」
「マイネク先生、来ましたか」
「他の連中は?」
「リドネ、ライサ、ソーウェはいますぜ」
「みんな、いるんだな……」
 夜啼き鳥のものさびしい調べが、山にこだました。冷たく感じる風が、山の方から吹き抜けていく。
 吹いていく先の、坂の下を見下ろす。町役場のある広場へ続く石だたみの坂。その外、ずっと下りていくと、シディアの町、そしてマナの町へ続く。
 東の空の夜闇がわずかに溶けだし、山の端がはっきりと浮かび上がる頃、一行はシディアの町からマナの町へ向かう小舟に乗った。
「潮の香りがする……海が近いのね」
 ライサはゆられながら、星を見つめ、ぽつりと言った。潮という言葉に、マイネクは胸がきしむ思いがした。
「あの人と、戦うことになるのか……」
 リドネは、遠くに月を眺めた。いつもは快活そのものの彼女が、今ばかりは一言も発しない。
 少し日に焼けた手をゆっくり動かすと、魔法の青い光が、まとわりついた。驚いて、自分の口をふさぐように手を当てる。緊張のためか、すでに魔法の力がみなぎっている。
 ──この力、使うことになるのだろうか──
 身体全体が、戦慄に震える。

 マナ町の門をくぐり、町の広場へ向かう。
 王城の人たちは、まだ気配がない。
 ミンの心は、落ち着いていた。たゆたう、しっとりした霧に包まれ、ミンとアキは、自分たちの世界のことを思い出していた。白い霧が二人を包んで守ってくれるかのよう。
 イグゼム王城側からの入口は、丸太を組んだだけの質素なものになっていた。町全体に沈む霧は、しだいに晴れて、朝の空気に置きかわっていく。
「……風……」                         背中に、澄んだ高い声を聞いた。               「……風が、変わった……」
 妖精のような、鈴の音にも似た、ささやくアキのひとりごと。
「どうしたの?……」
「足音が、きこえるわ」
 その瞬間、遠くから、サクッ、という靴の音が聞こえた。
 風にあおられ、身震いする。
 緊張が皆の間を走った。
 あきらかに、兵士の、いくつも爪のついたブーツの音だ。
 お互いが、ほんのわずか視線を合わせ、いいたい事を通じ合う。誰も言葉を発するものはいない。
 朝煙のむこうに、人影があらわれる。

 十二三人は、いるだろうか。──意外に多いな……──マイネクはわずかに不安を覚えた。
 ほとんどは、鎧をつけた兵士たちだった。──隊長が一人、残りが王城の兵士たち、……魔法使いが一人……──服装から、とっさに判断する。
 霧になびき、波うつ髪……。──エルムだな……それならば、隊長は彼女の夫だな……──きゅっと下唇をかみこみ、みずからを奮わせる。
 ──戦うのか? わしは何を守るべきなのか?──自分に問い掛けてみる。いざというときに、迷いたくないから。
 一陣の風が、広場に残っていた乳白の霧を、押し流していく。
 未だ鈍い、朝の空色の中、兵士たちとケンネの魔法使いたちは睨み合った。
 隊長─ガルフ・ユートは、胴巻きに差してあった詔勅の紙を、ていねいに開き、眼前に広げた。
「……王城魔法院元副院長、マイネク・ウィルフィールド。同、元院生、リドネ・リーム。先王に与せず、新王を慶賀せず、もっぱら職務を怠慢する。大賊ケンネによしみを通じ、いたずらに徒党を組んで反逆の意を明らかにする。
 罪のありかは明らかなり。速やかに投降し、罰を乞うならよし。抵抗するならば、聖意を以て討伐する!」
 黒髭をふるわせ、小柄だが、色黒の鍛えあげられた身体から、雷鳴のような声をとどろかせる。
 きちんと、紙をたたみ、もとのようにしまい、隊長は魔法使いたちに向き直った。
「王を傀儡とし、住民たちを己の私利私欲のために使っている連中が何をぬかす! 聖意とは片腹痛いわ!」
 マイネクは怒鳴り返した。
 サイアルの表情に、怒りが感じられた。ミンは、まずい、と思った。──感情のたかぶりは、魔法の暴走をまねく……──。
「主君に背く不忠者がほざきよる! おとなしく我々に従え!」
ガルフ隊長は、一歩前に進み出て、答えを返した。詰められた距離に、圧迫を感じる。それ以上近づかれると、魔法よりも剣の方が早い。「止まれ!」
 サイアルの太い声が響く。
「近づくな!」
 隊長は、無言で剣を抜く。両手でしっかりと持ち、いつでも斬り入る構えを見せる。
 サイアルは、視線を剣の動きから離さず、両手をゆっくりと前に伸ばし、気を練った。魔法の力を物理的な力へと変えていく。
 だが、魔法の珠は現れない。
 あせりが、よけいに心を乱す。狼狽をさとられないように、視線に力を入れ直す。こころなしか、ガルフが薄笑いを浮かべているような気がする。
 ──なぜだ!? ここには、魔法の力がないのか!?──
 空しく、印を組み直す。
 リドネは、その様子を、すばやく見て取った。──何!? 何が起きているの!?──
 魔法の目を開いてみて、絶句する。
 薄い膜、……水の膜が空間を閉じ込めてしまっている。空から地までぐるりと、完全に。この空間には、全く魔法の力が入ってこない。透明の膜を通して見える、外の力のゆらめく光が、よけいに絶望感をあおりたてる。
 ──水、……水ね。……あの人の得意だった……──
 気が遠くなりそうだった。リドネは、昔、結局自分の力がエルムに及ばなかったことを、今あらためて思い知らされた。
「……水の、空間封じだな……。エルムの作った魔法だ……」
 マイネクは、思わず言葉に出した。──完璧だな。気づかれぬようにこれほどの封鎖をするとは……、気づいてしまった時には、すでに手のうちようがない。
 てのひらで、気を集めようとしても、光すら現れない。
 ガルフは、余裕をもって、ゆっくりと剣を大上段へとかざした。そのまま、王城の兵たちの中から、一人で魔法使いたちの方へ歩いてくる。
 魔法使いの先頭に立っていたサイアルは、腰に下げた剣のつかに手をかけ、二三歩後退した。ガルフの様子に気圧されている。
 ──今いる中で、いちばん剣の心得があるのは、おれだ。……だが、王城一と言われたガルフと戦っても、勝てる見込みはない……俺の月虹が、きれいに奴の剣を叩き折ってくれれば、わずかに勝機はあるか……──
 突入するけはいを見せながら、ガルフはじりじりと近づいてきた。全員、広場の隅の方へ、追いつめられていく。
 空間封じからも、抜けられそうにない。……外へ応援を頼もうにも、水の封印が解けないことにはかなわない。
 何を、すればいいのか?──マイネクの手に、じわりと汗がわく。歯をくいしばって、あきらめを必死に振り払う。
 ガルフは、ついに、無言で突進した。
「待って!」
 その時、ガルフの後方で声がした。
「彼らを倒すのは、まだ早いわ!」
 全身に、流れる水の気をまとい、エルムが立っていた。
 ドレスのような濃紺の服に、綾絹のスカーフを巻いていた。豊かな髪をたばねもせず風にまかせ、毅然としてガルフを見つめている。
 ガルフは振り向きもせず、足を止め、剣を青眼に下ろした。命を削るような極限でも、エルムの心はわかる。それでも剣を構えたサイアルから、視線は離さない。
 隊の残りの兵士たちといっしょに、エルムはガルフのすぐ後ろまで歩いてきた。マイネクたちとも、普通に話していてはっきり聞こえるほどの距離である。
「……マイネク様、……お久し振りです」
 彼女の言葉は、嫌味も、含みも感じさせず、すなおだった。姿は若々しかったが、表情は歳相応におちついていた。
「……エルム……。君はどうして王城に残ったのだ……」
 緊張のため、マイネクの声は震えていた。
 エルムは、ふと視線をそらし、再びマイネクを見つめ直した。
「私の願いは、……マイネク様を王城へ連れ戻すことです……」
「……だが、今の王と貴族たちのもとでは、働けないのだ。今のままでは魔法使いのためにも、民のためにもならん」
「そうでしょうか? 私は、君主のもと、臣下として仕えることが道のように思います。たとえ障害があったところで、逃げ出すのが、臣としての筋でしょうか?」
 一瞬、背中に冷たいものを感じたが、“迷わない”という自分の誓いをすぐに思い出した。
「……だがエルム。もう、時は動き始めているのだ。止めるわけにはいかない」
「残念です、マイネク様。……あなたほどの人が状況を見誤るなんて……」
「わしは間違ってはおらん。自分の信じるもののために動いているだけだ。……君に、守るべき、信じるものがあるようにな……」
 マイネクの信じるもの。それは、この島に魔法の時代が来ること。そのためには、子供たちに開けた未来を作らないとならない。……エルムの信じるものは何だろうか? 決して王城や貴族たちではないだろう。目の前にいる、隊長──ガルフ──彼女の夫、と行動を伴にすること、なのだろう。
 エルムは、寂しそうに、視線を落とした。
「しかし、マイネク様……。今のあなたは、傍らの、若い魔法使いたちさえ、守れないでしょう?」
 水の膜は、まだ、しっかりと、空間を閉鎖していた。マイネクに残されたものは、老いて細くなった腕と足だけ。
「……今、わたしたちが戦えば、あなたがたは全員死ぬだけです。意地を張らないで、縛を受けてでも生き延びるときではないのですか?」 サイアルと、ガルフは、ずっと、お互いの剣先に視線を合わせていた。次の、マイネクの言葉によって、剣を交えるかどうかが決まる。
 しばらく、マイネクは迷っていた。ほんのわずかな時間だったかもしれないが、ひどく長く感じられた。──わしは、魔法使いたちを守らないとならない。だが、……確かに、……今の状況はどうしようもない。……わし一人が意地を張って、ミンやアキまでも傷つけることは、できない……──
 降伏の言葉が、頭に浮かんだ。それを口にだそうとしたとき、何か別の考えが入り込んできて、言葉をわすれてしまった。
 また、言葉を思い出したとき、今度ははっきりと、心に侵入してきた声を聞いた。
「……魔法空間地図、“夢のほとり”……。“がけ”から“塔”へ向かう道……」
 マイネクは、瞬時に、それが何であるかを悟った。
 ──水の封印の、抜け道!──
 背中の、すぐ後ろでミンがつぶやいていた。ちいさい声なのに、マイネクの耳に、はっきりと響いてきた。
「……“塔”のあと、“青の霧”“砂漠”、“森”を抜ける……」
 ──そうか、そんな所にあったのか……──マイネクは、ミンの言葉通りの道を、頭の中に思いえがいていく。
 心を、“夢のほとり”に合わせる。目の前から広場の光景が消え去り、魂は白いもやを越えて、魔法空間へと突入する。
 “夢のほとり”の空間は、切り立った、無限とも思える高さをもったがけがある。がけに張りつくように、細い道が何本も通っている。マイネクは、“がけ”から“塔”へ行く道を急ぐ。
 空間は、一変し、青の霧に包まれる。
 かすかな、魔法の力を感じる。……ここもほとんど水に覆われているけれども、抜けられる方向がある。──ここからなら、わしでも先の道がわかる──
 外と、力をつなげさえすれば、魔法が使える。マイネクの心はひたすら先へ進む。……宙に浮き、はるか下に“砂漠”を認め、“砂漠”のなかの“森”へと飛び込んでいく。その“泉”の中、……はっきりとした魔法の力を感じる!
「……マイネク様! 何を迷っているんですか!?」
 そのとき、エルムの声が響いた。瞬間的に、マイネクは我に返った。しかし、ぎりぎりで、なんとか、外の力までのはっきりとした流れをつかみとっていた。
 てのひらをかざすと、力の虹色の珠が現れ、すうっと大きくなる。
「……!?」
 エルムは、顔色を変えた。
「ガルフ!」
 ガルフは、思わずエルムの方を振り返った。
 サイアルは、弾かれるように、ガルフへと刀を振り下ろした。
 ガツン……
 鈍い音を立てて、刀は赤土に深くめりこんだ。
 鬼のような形相で、ガルフが振り向く。
 ギン……
 刃と刃が、はげしくぶつかり合い、火花を立てる。
「つぅ!……」
 腕にしびれを感じて、サイアルは剣を落としかける。あわてて後じさり、次の一撃を避けようとする。
 逃さじと、ガルフが踏み込む。
 ──受けきれない!──
 サイアルがそう感じたとき、ガルフの背中にマイネクの力の珠が直撃する。ガルフは鈍い衝撃にバランスを崩す。
「ちぃっ……!」
 左手を地面について、かろうじて身体を支え、二歩下がって態勢を立て直す。ほんの一瞬、視線を走らせ、状況を確認する。
 ──彼らのリーダーは、マイネクだ。マイネクは今魔法を解放したばかりで、次の攻撃はまだ来ない……──
 とっさの判断で、ガルフはマイネクへと突っ込んだ。
「……いけない!……」
 叫んだのは、エルムだった。
 七色の魔法の光が瞬いたかと思うと、ガルフは、横面をおもいきり殴り飛ばされたような衝撃を受けた。
 そこへ、サイアルの月虹が襲う。
 ほとんど、反射的に、右手一本で剣を突き出す。
 ゴスッ……
 何かがつぶれたような音……。
 ──手応えは、あった。
 剣先が、あの、魔法使いの、服を貫いた感触。
 紅色の鮮血。
 だが、肺の奥から、自分の血の匂いがこみあげてくる。
 視界が、急激に曇っていく。
 全身の力が、抜けていく。
 頭が、ぼおっと、真っ白になる。
「ガルフ!」
 エルムが、私を呼んでいる……──

「きゃああああああ……!」
 絹をひきさくような悲鳴が、広場の空気を凍らせた。
 強烈な“死の瞬間”の衝撃が、魔法使いたちの心をゆさぶる。
 サイアルは、脇腹に深く剣を受けていた。猛烈なうずきに耐えかねて、刀を引き抜くと、かたまりになって血が吹き出た。がっしりとした身体が、前のめりに崩れ落ちる。
 サイアルの月虹は、ガルフに根元まで突き立っていた。肩当てを容赦なく貫き、首筋の横を通って、身体の中心へと。
 はげしい血しぶきは止み、今はただ、ゆっくりと流れ出るのみになっている。ガルフのまぶたは固く閉ざされ、表情はない。
 ──殺してしまったのか……、おれは……──
 ただぼうぜんと、サイアルは感じていた。そして、考えはとぎれ、気を失ってしまった。

 エルムは、不思議なほど、醒めていた。
 頭のどこかが、冷静に動いていた。悲鳴をあげた自分を、客観的に見つめている、別の自分がいた。目の前の光景に、なんの感情も覚えなかった。
 あしもとからぽかぽかと、身体が暖まってくるようだった。やさしい熱が、すうっと、魂を身体から引き離し、遠くへと連れていこうとする。
 まだ少女の頃、魔法の修行に明け暮れていたころ……。
 極限まで集中力を高めた後、かならず、ひどい寒さが心を襲った。
 一日の、ひととおりの修行を終えた後、横たわり、枕をかんで、ひとり、どうしようもない脱力感と戦っていた。
 はるか高みまで昇らせた精神は、猛スピードで落下する。やわな心は、その激しさに耐えられない。
 魂の抜けがらにならないように、残された、かすかな気力をあつめて、必死にここちよさに抵抗する。
 すがるものが欲しい。
 霧散する自我を、きつく、ぎゅっと抱きしめて、とじこめてくれる誰かがほしい。
 魔法空間の闇のなかへ溶けていってしまう自分を、はるかに大きい手で、つかまえていてくれる……。
 私がどこへ旅しようとも、
 彼の手のなかにある。
 すべての力がみなぎるとき、
 私は彼の大地に立つ。
 永遠をともにしようと誓い合い、ずっと頼りにしてきたガルフ……。彼が、目の前で、倒れている。
 心が、ういている。もう、よりどころはなく、消えていくものを、とどめる人はいない。
 長いあいだ忘れていた、魔法の後のむなしさが、全身を襲う。悲しみ、悩み、悔い、……そういったものが、ゆっくりと芯からわきおこってくる。
 景色が、真っ白になり、身体から力が抜けていく。
 意識が遠のいていく。
 そして、封印をしていた水の気が、力を無くしてしまった魂に、いちどに帰ってくる。もはや、とどめることはできず、気は奔流となって流れていくだけ…………。

 ──しまった!……──
 サイアルとガルフが相討ちになった瞬間、マイネクは思った。
 ──戦いに、なった……。殺してしまった! どうしても、それだけは避けるべきではなかったのか!?──
 ライサやソーウェが、サイアルを助けようとして集まるのを、黙って見ていた。
 ──わしが、戦いの熱にうかされていたということか……──
 しかし、戦闘は続いていた。残りの王城兵たちが、突入してくる構えを見せている。とっさに、魔法空間へ入り、彼らを眠らせる呪文を唱えようとする。
 そのとき、
 エルムの叫びを聞いた。
 はっと、彼女の方を見る。
 倒れる瞬間が、きわめてゆっくりと目に焼きつく。
 まぶたが閉ざされ、首が前へがくりと落ちる。ひざが折れて、上半身が倒れ、豊かな髪がふわっと持ち上がり……
 そのままのすがたで、エルムは静止する。
 身体の内側から、光の筋が、一本、また一本と現れる。幾筋もの光は、まとまり、空色にひろばを照らす、まぶしい閃光になる。
 エルムの姿が、光に呑まれ、形を失っていく。
 ──魔法が、暴走している!──
 ミンは身構えた。
 じっと、青白い、まぶしさの中に、エルムの姿をさがす。
 まとまりのない、きらめく渦が、しだいに人の形を成し、宙に浮く。鳥が飛び立つときのように両手を広げ、天へとかざす。
 広場の空高く浮き、険しい表情で魔法使いたちを見下ろす。身に、水の気だけをまとい、輝きをはなちながら。
 表情は、……わからない。
 ──この人は、海の女神か……──
 ミンは、そう思った。力強く、そして、それ以上に美しい。
 すべての人が、エルムを見上げていた。……我を忘れて、何が起こったのかも、忘れてしまって。
 エルムは、ゆっくりと手を地上へ向け、目を閉じた。広場をおおっていた水の気が消え、空気が乾く。
 騒がしい風の音がやみ、いっさいの物音がしなくなる。
 一瞬の静寂。
 次の瞬間。
 激しい魔法の流れが、天から叩きつけられる。
 ミンは、思わず腕で顔をおおった。
 全身の気を腕に集中させて、流れをさえぎる。アキやマイネクたちの盾になるように。
 ──アキ、アキ! だいじょうぶなの!?──
 心の叫びに、返ってくる答えはない。
 魔法の力は、次第に速さを増してくる。
 ──この流れは、涙の匂いがする……──
 ひどい哀しみが、渦を巻き、猛然と流れている。
 さみしさが、ミンの心にも差し込んでくる。
 森の中で、ひとり歩いていた頃を思い出す。言葉も忘れ、ただ滝の冷たさや葉の擦れる音に心をいやしていた日々を……。
 エルムの苦しみが、心をわしづかみにしている。
 ──魔法は、結局、救いにはならないのだろうか……?
 ミンの心は、おおきく惑う。

 アーガスは、川向こうから漂ってくる異変に気づき、武装させた若者を数人連れて、小舟をマナの町へ急がせていた。
 腐りかけた桟橋に舟をたたきつけるように寄せ、ロープを手早く掛ける。踏み固められた土の道をどやどやと押し進んでいく。
 上り坂の頂上に立つ。そこから見下ろすと、マナの町の広場が見える、はずだった。
「何だありゃあ!?」
 アーガスは、目を丸くした。
 広場のあるはずのところに、巨大な光の珠があった。……青白く、煌々と輝いている。珠のまわりには雲のように濃い霧が、かたまりになって渦をなして回っていて、水気を含んだ強い風が吹き寄せてくる。
 魔法の何かだとは、直観的にわかった。とても、まずい事態になっているだろうことも。……だが、どうすることもできない。
「マイネク様、なんでしょうか……?」
 若者の誰かがつぶやいた。
「わからねえ。だけど、多分あいつらなら大丈夫だ。俺にはそんな気がするな……」
 輝きから目を離さず、アーガスは答えた。
 よく目をこらすと、まぶしいほどの青白い光のなかに、とても暖かい、だいだい色の光が見えたから。
 ──あの光が、どんなものかは、俺にはわからん。だけど、あの光の「やさしさ」。それだけは、わかる──
「心配はいらん。行くぞ」
 若者をうながし、坂を慎重に下りていった。
 冷たい色の光は、徐々にうすれてきていた。まるで暖かい色にのまれるように。
 近くまで来たときには、寒気は、もう感じられなかった。
 だいだい色の光のまんなかに、ミンがいた。
 ひとり、杭のように立ち、けわしい表情で精神を集中させ、背後にいる他の魔法使いたちを守っている。
 そっと、まぶたを閉じ、ためいきをついて再び顔を上げる。すうっとだいだいの光は消える。
 東の山かげから太陽の光が差し込み、横顔にまぶしい光を受け、長い影が石畳にさっと伸びた。

 暖かい風が吹いた。
 なにごともなかったかのように、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
 広場には、四人の体が、倒れていた。
 相討ちになった、ガルフとサイアル。意識を失って、力なく身体を投げ出しているエルム。そして、力をなくしたアキ。
 王城から来た兵士たちは、無言で、ガルフとエルムを背負った。黙々と、うつむきかげんに歩き、時々目を交わすだけで、作業のように事を進めていく。
 とぼとぼと、元気なく、無防備な背中を魔法使いたちにさらしたまま、十人ほどが、列を作って、ばらばらな足並みでゆっくりと坂を下りていく。
 その最後の一人が、広場から見えなくなったころ、アーガスたちは魔法使いたちのところに着いた。
「どうなったんだ? 何が起きたんだ!?」
 “疲れた”という様子で、しゃがみこんでいたマイネクが、大儀そうに、アーガスを見上げた。
「……王城の兵士たちだ。戦闘になってしまったよ……」
「そうか……それで、どうしたんだ?」
 マイネクは、サイアルへと視線を動かした。
 リドネたちが、サイアルを囲んで、重い傷を癒す呪文をいくつか唱えていた。取り囲む魔法使いたちの表情は、一様に、暗く沈んでいた。
「大丈夫なのか?」
「わからんな……。傷はかたまったから、動かせは、する。しかし、本当に直すことができるかどうか……」
 そのとき、マイネクは、見下ろしてくる、ミンの視線を感じた。瞳が何かをうったえている。
「……君は、だめだ」
 わざと、冷たい突き放す口調で、ミンの考えを断ち切る。
「……どうしてなの?」
「これ以上、あの子を消耗させてはいかん。君の思っているより、アキは弱いのだから」
 そのとき、神々しささえ感じさせるほど、厳しかったミンの表情が、不安にくずれた。急いでアキのもとへ駆け寄る。
 アキは深く眠っていた。顔には血色がなく、唇は乾いていて、かすかな呼吸の音だけが、かろうじて生命のありかを伝えていた。
 ──ごめんね。こんな目に合わせて……──
 ミンはアキの頭を、大きな手で、包み込むように支えた。細く、波うつ髪がてのひらの中でくしゃくしゃになる。
 長い、伏せられたまつげに、ミンはそっとほほを寄せた。胸の中にアキの顔をうずめる。
 無意識のうちに、アキの腕がミンの腰に絡まる。
 しばらくの間、ミンはアキを抱きとめていた。
 安心しきった赤ん坊のように、アキは安らかな寝息を立てていた。しかし、瞼はきゅっと閉ざされたまま、動こうともしなかった。
 ──あぶないところだった。私が、ほんのわずか力を使いすぎていたら、この子の魂を完全に飛ばしてしまったかもしれない──
 最悪の想像に、ミンは寒気を覚えた。


夜の底は柔らかな幻〜第9章