夜の底は柔らかな幻〜epilogue  

Epilogue "send me a cryptogram"(496/Winter)

 朝の、山裾をしっとりと下りてくる、乳白の靄の中、マイネクとアキだけに見送られ、ミンは二年間住んでいた建物を出た。外への扉は、この日はやけに重たく、きしむ音がかすかにこだました。
 夜通し、いろいろと話すことはあったはずなのに、二人とも床につくとすぐ寝入ってしまい、気がついたときは、白々と開けるやわらかな光に、ここちよく照らされていた。
 ずっと、ちいさな手を、アキは振り続けていた。ミンは、少しずつ、階段を下り、何度も振り返って、手を振って応えた。
 町の広場を抜け、シディアへ続く道と、イナム国へ続く道が分かれるところで、ミンは大きく、今まで下りてきた道を振り仰いだ。
 湿り気を帯びた、あしもとの土。長く続く坂の上に見える、換気のための塔。その背後に、灰色の空を背景に、テンヤンの山がおおきくそびえていた。
 空気を思い切り吸い込み、下唇をかみこみ、目をきゅっと閉じる。
「この一年が、私の、いちばんしあわせな一年だったかもしれない……」
 胸の奥の想いを、低い声にしてみる。

 まほろばを旅立つ者よ
 よく覚えておきなさい
 今の瞳の色を忘れなければ
 必ずここへ帰ってこれる
 どんなに遠くへ行こうとも

 ケンネに伝わる、こんな古謡があったことを思い出した。
 ミンのこれから行く、スマの村までは、しっかり歩いて二日かかる。遠くはない距離だけれど、心理的には、大陸のはるか西の果てまでいくのと、何にも変わりがなかった。

 魔法使いの目から見ると、スマの村は、心に傷をもち、逃げるように来た人たちと、新しい世界に夢を求めて来た人たちとが、多様に入り交じっていた。
 ミンは、妖魔の封印に力を貸し、荒れた魔法空間を整え、時にはけがや病気の人の手当てもした。
 いろいろな魔法は覚えたけれども、──自分を見つめる機会はこの村にはないだろう──、そんな気もした。
 一季節ごとに、アキからの手紙が届き、うつくしい四季の言葉と、ケンネ町の近況が伝えられた。イオナスと二人で、ウィラ資格を取るための修行を重ねていることが、いつも書いてあって、ミンの心をうれしくさせた。

 四九七年の夏、例年通り、ケンネではテンヤン山麓結界のチェックが行われ、マイネクが一人、山道を歩いていた。
 左右の緑は、あかるくなびき、真っ青な空には綿のように、いくつもの雲が浮かんでいた。
 ──三年前、初めてミンと会ったときは、ここで休んだんだな……──
 そう思いながら、案内板の傍らに、腰を下ろして水筒を開ける。
 そのとき、
 背後から、ぱたぱたと、翼で風を打つ音が聞こえてきた。
 驚き、振りかえり、さらに目を見開く。
 二人の妖精。片方は白銀の髪を右側に大きく束ね、もう一人は栗色の羽で、きつさを感じさせるほど鋭い目をしている。
 近づいてこられただけで分かった、魔法の強い雰囲気で、マイネクは二人が誰かを悟った。
 伝説のフェアリーと呼ばれる、シノと、レイナだ。
 白銀のシノは、マイネクの眼前に静止し、レイナはさっと飛び上がってマイネクの肩に降り立った。
「……ミンは、どこへ行ったの?」
「……あの子は、今どこなの?」
 かわるがわる、聞いてくる。
「今はな、スマで魔法の修行をしている」
「そうなんだ……」
 シノはすうっと、空へ飛び立ち、高くからマイネクを見下ろした。
 耳元で、高い、鈴のような声で、レイナがささやいた。
「うん、いいわ。でも、いずれミンは、あたしたちのところに来る。イナムの、山で、あたしたちは待ってる……」
 肩に衝撃を残し、レイナは羽ばたき、二人寄り添うように、遠く北のイナムの山の方へ帰っていった。
「シノと、レイナが、待ってる?」
 重々しく、真剣な表情で、マイネクは自分に疑問をぶつけた。

 高い才能を持った子供たち、少しずつ活発になっている魔法空間、いろいろなことが、魔法の時代の到来を告げていた。
 五百年前の、「もう一つの世界」がすぐそこまで来ている。
 ──これから、島中に魔法が花開く、そんな時代が来る……──
 昔からの想像が、確信に変わる。
 その時代が、どんな様相になるのか、そこまでは予想できない。
 しかし、マイネクは、一年間の、ミンとアキの様々な表情を走馬燈のように思い出していた。
 ──あの子たちが、活躍するのならば、これからの時代は、まちがいなく、とても、幸福な年がつづくに違いない──。
 魔法の時代の端緒を、自分が見ることができたこと。マイネクはそのことが、なによりも最高のしあわせであるように感じた。




              「夜の底は柔らかな幻」
                 Story of "Min" vol.1
               1995. 8.19 〜1996. 9.17
                     Haina; Kazumi



夜の底は柔らかな幻〜epilogue