夜の底は柔らかな幻〜prologue  

Prologue "reincarnation"(494/Autumn)

 ひとけのない暗い森の奥、ひんやりとした朝霧のただよう河原に、長身の少女が独り、たたずんでいた。

 きゅっきゅっ、と、砂利を鳴らしながら、少女はまるみを帯びはじめた細い身体を、二三歩、流れへと近づけた。
 目を閉じ、せせらぎに耳を澄ます。さらさらと岩や砂の間を抜ける、流れの声が聞こえる。やがて、ごう、と風がうなり、枝や葉があわただしく擦れあい、少女は顔に押しつけられる冷たい空気を感じた。
 腰ほどまである豊かな黒髪が、ふわりと風になびき、さらりとまた元のようにおさまった。
 清冽な、森の朝風を、少女は思い切り吸いこんだ。きりり、とひきしまったものが恍惚をともなって全身に浸みていく。
 少女は思う。
 ──ああ、今日も生きているんだな……──
 森に追われてから、何ヵ月がたったのだろう。だが少女は、一日一日を正確に数えてはいなかった。わかるのは、秋から冬に向かう、おぼろな季節の変化だけ。
 顔を洗おうと、手に取る水が、次第に冷たくなり、肌を切るようになった。これから、どんどん寒くなるだろう。……あまり先のことは考えたくない。
 それでも、「何かをしなければ」「森を出て、どこかへ行かなければ」という思いだけは、頭から離れない。目的も場所もわからない。時には意味もなくあせり、泣きそうなくらい不安になる。この衝動が彼女の魂の根源からくるものだ、ということを、少女はまだ知る由もない。

 少女は、河原に落ちている枝から、新しい、腐ってないものを選んで手に持った。空を見上げると、川をドームのように包む枝のすき間に、早朝のくすんだ鼠色の空が広がっていた。
 枝の、いちばん高いところ、赤みがかった葉をじっと見つめる。──あの葉から、私はどのように見えるのだろう……──視線をそらさずに想像する。
 遠い彼方の、天のスクリーンに、想像が投影される。自分の頭、肩、漆黒の髪の流れ、つむじの向きまでもが、はっきりと眼前に広がる。現実の風景と、上から見た自分が二重写しになる。
 その状態を、壊さないように気をつかいながら、葉を自分の中に取り込むような心持ちで、目の焦点を手前へとずらしていく。少しずつ、自分の上からの姿はぼやけていき、やがて見えなくなったとき、視界が一瞬ぱあっと明るくなるような感じがして、少女は新しい視覚を得る。
 辺りを見回すと、いつもとは違う何かが見えてくる。光の束や流れ、鈍く輝く色など。誰に学ぶことなくわかった、彼女なりの魔法の発動のしかた。
 派手できらびやかな視界を得て、少女はうっとりと微笑んだ。
 細かな粒の集まった光は、魔法の純粋な力で、森中いたるところにあって、激しく動いたり、まぶしいほど輝いたりしている。色は、ものの性質を表していて、木ならどの木でも、岩ならどの岩でも、ほとんどおんなじ色をしている。

 時折、テンやイタチのような姿をした、黄金色に光る動物らしきものが通り過ぎる。少女が手招きすると宙を泳ぐようにやってきて、棒のように細い腕にからまるようにまとわりつき、気まぐれにいずこかへと飛び去っていく。
 普通の人の目にも、わずかに映るそれは、妖魔と呼ばれ、人の魂を吸い取るものとして恐れ、嫌われている。
 確かに妖魔は、人を襲うこともある。時には死に至らしめることも。だが、森の動物たちと一緒で、余程のことがない限り、人に危害は加えない。彼らを怖がらせない方法を心得ていれば、襲われることなどまずない。そのことを少女はよく知っていた。
 知っていたから、動物と戯れるように、無邪気に妖魔と戯れ遊んでいた。しかし、それは村の人にとっては決して無害なものではなかった。早くに両親を亡くした彼女は、守ってくれる人もなく、村から森へと、石もておわれるように、追放されたのだ。
 魔法の目を天に向け、遠く遠く飛ばせば、世界のいろんな事がわかる。
 森のすぐ外に鉱山町があること。ここは大きい島で、海をこえて少しいくだけで、たくさんの人が住む大陸があること。いたる所で、彼女の持っている魔法の力が求められていること……。
 何度も何度も、森を出ようと考えた。そのたびごとに、怖がられ、追われた嫌な記憶がよみがえる。乱暴な言葉や狂気じみた目が思い出され、少女の心を絶望的なまでのあきらめに追い立てる。
 それで、ずっと、森にいる。妖魔たちと遊び、時々、魔法の視線を飛ばして、世界の出来事を胸のうちに積み上げながら。

 少女は、今日もどこかへ思いを飛ばそうかと思っていた。だが、とりあえずはやめた。起きたばかりでおなかが空いていたし、実際、そのつもりで手には枝を握ったままだったから。
 枝は、ちょうどいい具合に、外側の皮がむけて生木が表面に出ていた。目にはクリーム色に見えるこれは、魔法では黄土色に光ってみえる。この色は魔法で見るパンの色に、とてもよく似ている。
 少女の頭の中には、魔法の小箱があって、お気に入りのものの魔法の色を、しっかりと記憶している。今まででいちばんおいしかったパンの記憶も、ちゃんとそこにある。
 その色を、枝に移せばいいのだ。ただし、簡単なことではない。 「色」といっても、本当はたくさんの要素が複雑にいりまじっていて、移すときには一つ一つを分解しないとならないのだから。
 しかし、少女にとっては、わけもないことだった。並の魔法使いには難しい「物性の転換」を自分なりの方法と呪文で、やってのけていた。どんなにすごいことなのかも、知らないまま。
 後は、色を移すための力を持ってこないとならない。この森は特に魔法の力が強烈で、一般の人はおろか、魔法使いたちにさえ恐れられている。しかし、どんなに激しい光の流れも、彼女がやさしく包み込むようにすれば、おとなしく彼女の命に従う。
 こうして少女は、魔法使いから見ればとんでもないことを、日常の一部として、毎日毎日、あたりまえにやっていた。

 木の枝から作られたパンは、ふっくらとやわらかく、香ばしく、ほんのりイーストの香りがして、焼きたての暖かささえあった。
 河原の手頃な岩に腰かけ、最高級のパンをほおばるとき、少女は ──自分に力があって、ほんとに良かった──と思う。魔法の力がなければ、とてもこんな森では生きていけなかっただろう。
 それでも……、力があったから、村にはいられなかったのだ。「お前は妖魔を使って、俺たちを殺そうとしたんだ!!」……言葉が少女の胸に突きささる。──そんなことはない!──しかし、一度思い込まれてしまったものはどうしようもなかった。
 日は少し高くなっていた。森の地面はまだ薄暗く、湿っていたが、木々の上のほうに、きらきら輝く葉が風にまたたき、見えかくれしていた。
 はるか、空の向こうにはひらけた世界がある……。
 森を出るか、ここにとどまるか……。
 少女はいつものジレンマに陥ってしまった。組んだ脚の上に肘をのせ、手のひらの上に頬をのせ、眉根をよせて悩みつづける。悩んだ末には、いつも同じところに行きつく。
 ──出たい……だけど、もしまた嫌われ、追われるような事になれば……──
 少女の心が、気弱にとまどう。私は生きていて良いのだろうか? 一瞬だけ「死」へ向かう道が心をよぎる。
 だが、少女は、自分がこのまま死んでしまうことはありえないことだと感じていた。
 なぜなら、「何かをしなければ」という思い、「どこかへ行かなければ」という願いに、自分はまだ、全く応えていないのだから。
 ──でも、どうしたら、いいの?……──
 思わず、少女は立ち上がっていた。自然なままの長い髪がぱさりと音をたてた。
 色白で面長な顔は優しさを、ひきしまった眉と高い背は凛々しさと力強さを感じさせ、十三の少女にありあまる程の力をみなぎらせ、その内側に繊細でもろい心を隠していた。

 もし、少女にきっかけがなかったら、彼女は本当に、森の雪にうずもれて、冬の中に死んでしまっていたかもしれない。しかし、このとき、幸いにも、少女のもとめていた「きっかけ」は、ほんのすぐ近くまで来ていたのだ。
 それは、白髪で白髭の、魔法使いの老人だった。


夜の底は柔らかな幻〜prologue