詩篇

嘆きの精へ


 旅人は、花を摘む手を止めた。
 可憐で、気高い香りが、手荒なふるまいを拒んだ。
 「それは、恋人の花だよ」
 夢のような、乳白色の霧の向こうに、老人の影がゆらりと現れた。
 老人は、小舟に乗って、若い頃からこの湖で漁をしていたと言う。
 「この地は、雨が絶えることがないでな」
 微笑む老人の目元に、幾重にも皺が寄る。
 ──いったい、いくつなんだろう──
 若い旅人は、思い、ぶるっと震えた。自分が老人の姿になるまでの年月を感じた。
 それでも、
 人の命ははかない。
 ひとつぶひとつぶがやわらかい、霧雨の匂いに包まれて、
 透き通った湖は、少し塩辛く、悲しい味がする。
 嘆きの荒野。
 それでも湖のまわりには、わずかに森ができ、草木がしげる。
 嘆きの精の心に、ほんのすこし暖かさがあるように。

 幼い身体に、大人の言葉を持った少女は、
 自らの神なるを知らず、
 神でない人間の哀しさを知らず、
 朽ちる運命のものを恋し、
 「ずっと、同じ姿のままで、彼を待ちつづけよう」と思った。
 幾千年が流れ、天空の少女は自分の中に時を閉じ込めた。
 一滴、また一滴と涙は、何もない大空に吸い込まれ、
 やがて雲を作り、砂を湿し、湖となった。
 一瞬かがやいて、すぐに立ち去ったその恋人が、
 はるか昔に土に還り、
 湖畔にひそやかに咲く一輪の花になっていることを知らずに。
 その花に、今日も涙の落ちていることを知らずに。

 老人は語る。
 「自分は少女の淋しさを受け止めてきた」のだと。
 だけども、
 人に永遠はわからない。
 ……老人は旅人に、小舟に乗るようにすすめた。
 「誰かが、彼女の淋しさを抱いてあげなければならない。彼女の心が癒えるその日まで……」
 旅人は、白く芳しい花を見つめた。
 霧雨の落ちた花びらもまた、泣いているように見えた。
 はるか天空から流れてくる、無数の涙滴を身体全体で感じ取り、
 旅人は自分の胸に両手を重ねていた。

 ぼくは、少女の暖かさに触れることができるだろうか。
 ぼくにそんな力があるのだろうか。

 旅人は、遠い昔の、少女の恋人に似ていたという……。


少年の見る夢

 顔しか知らない人の為
 名も忘れた女を探し
 歓楽の街を独り歩む
 美しさと気高さを隠すことなく
 流れる水に捕らわれず
 安易な快楽に流されず
 只、何かを追い求め
 進み続ける
 
 時の決まった生活が好き
 感情の触媒たちに囲まれて暮らしたい
 道徳の授業だけ出て
 他のものを役立たずと決めつける
 
 暗い デパートの奥の階段を登り続ける
 だんだんと厳しくなる段に身を削りながら
 それでも 上に待つ光が
 どんなものか わからない


庭園にて

 庭園にそびえる、雄渾なる大木を見て、問う。「この木は如何にしてここに立つか?」
 庭師の微笑みて答える。「先々代の植えしもの、と。大木は一代にしてはならず。世の栄光を誇るものどもが、見まねにて庭を作ろうと、徒に労力を費やし、数百年の木を運ぶが、それらは無理が重なり、ほどなくして枯れる。幼若の木を植えて、数代を経て、ようやくふさわしいまでの巨樹に育つもの」、と。
 思うところありて、答える。「ならば庭園は平和の証なり。戦乱まきおこり、いずれの国家も三代続かぬものなら、庭はできぬ。庭は子孫のために作られる。恒久なる平和を築き、永遠に栄えるように、と。大樹を守り、ともすれば内側から崩れそうな国というものの精神の礎となるように、と」
 庭師、微笑みて返す。


往きし人を偲ぶ

 往きし人を偲び 涙にむせる夜
 遙か昔のように思う
 あなたが私の記憶を閉ざしそこねたこと
 心の底より悔やむ

 別れること 離れること
 こんなにも苦しいことなのに
 何故生き続けるのだろう

 いたずらに不老の齢を重ね
 辛い思い出ばかりを積み上げ
 何故そうまでして未来をめざす?

 答えがわからないから
 多分まだ 生き続ける


雨の匂い

 雨の匂いに、子供の頃を思い出す
 あのころ、もっと視点は低かった
 水たまりに跳ね踊る波紋
 クチクラの緑葉にはずみ、きらめく水滴
 かげを作らないやわらかな光
 雨やどりしている子猫、申しわけなさそうに、角へ消えていく雨蛙
 そんなものたちが、ずっと心に近かった
 
 密林によどむ、妖精の目から、天の上から見下ろす高みまで
 身体から魂のありかは広がり
 地中から空気にとけこみ、あたり全てが薄い自分になる
 自然とひとつになり、さらに自らに還る
 何も恐れることなく、私は生きているんだと
 心に染ませ、ゆっくりと家路を進む


DARKNESS

 当たり前のことを当たり前にできない

 歯ぎしりしてまで
 追従笑いしてまで
 皆と同じになりたいか

 わずかな知識で、俺は異端だと
 滑稽すぎる、自分にさらに腹を立て

 どこまで行けばいいのか
 どこまでやればいいのか

 そんなに異端になりたいか

 暑さが脳を溶かす
 死ネ死ネ死ネと、何度もノートに書きなぐる

 精神医学書をひもとけば
 簡単に病名がつくだろう
 典型的な症例を越えきれず

 狂気の牙を隠し持ち
 当たり前の日常をこなすまで
 さまよい歩く日々の連鎖が
 やがて大きな円を描くまで

 耐えきれず、豚の頭のかわりに
 人の頭を投げてまで
 くだらなく、異端になりたいか

 俺の狂気はその程度か
 浅ましくも、何も生まないか
 だけど
 昇華という精神医学用語さえ
 俺は信じない。


幸あれ

 人に幸あれ。
 妖精族に幸あれ。
 動物たちに幸あれ。
 植物たちに幸あれ。
 天使に幸あれ。
 悪魔に幸あれ。
 幸あれ。


うた

 春は鳥の歌があるから
 夏は虫の歌があるから
 秋は風の歌があるから
 冬はヒトの歌をうたおう

 とても寒い日に暖炉を焚かないなんて馬鹿げている
 みんな集まる日にシチューを作らないなんてどうかしてる

 この世界はつながっているから
 黙ってしまうことは絶対にない

 さみしい夜なんてない
 だけど雪の積もった晴れた夜だけはなんの音もしないから
 ヒトの歌をうたわないなんて絶対におかしい

 はしゃいで、おどって、はねて
 なくしたものをみんな取り戻すんだ

 スピーカーの音とネオンの色は季節の音を全部消し去ってしまう
 スピーカーが黙る深い夜はなんの音もしないから
 ヒトの歌をうたわないなんて絶対におかしい

 目の前のしあわせをつかみとらないなんて馬鹿げている
 いっぱい稼いでいっぱい飾りたてないなんてつまんなくて死にそう

 うたわないなんてどうかしてる
 うたわないなんてどうかしてる



詩篇
[モドル]