Phase09:静寂の森にて


おふろにつかり、窓から川の流れを見ながら少年は考えました。
「いったいこの世界にいくつの音があるんだろう」
波をたてないように肩までお湯につかり、気をつけて数えます。
ふろを炊く火の音、天井から落ちる水滴の音、自分の息づかい、外でうなる風、川のせせらぎ、いくつ数えてもまだまだある気がします。
「とうさん、世界にはいったいいくつ音があるの?」
「数えたこともないな。そういうことならばあさんに聴け」

山が開く日に、少年はせいいっぱい山道を登りました。
村の古老はいつから生きているのかわからないヒトで、雨を降らせたり、病気を治したり、不思議な力をたくさんもっていて、山頂近くのほこらでいつも神様を祀っているのです。
村人とともに山に感謝し、自然からいただいたものをまた分け与え、ひっそりと森を守る。厳しい一冬を越えても老婆の目には曇りひとつなく、これから使われるアケビやマタタビの編みかごが冬のあいだに作られて積み上げられていました。
「おう、ようきたな。何? 音な?」
「おばあさん、この世界にはいったいいくつ音があるの?」
「知らね。そりゃわがんねえ話だ。わがんねのにはワケがある」
「ワケ?」
「全部の音をかぞえてもまだ聴こえる音がある。その音が聴こえれば何だってわがる。お前にもいつかわがる」
老婆の話は、いつものように答えはありません。ヒントだけです。少年はわかったようなわからないような顔をして、スタスタと山を降りました。

その日からです。
少年の旅がはじまったのは。


音、いくつあるの?

まだ聴こえる音ってなに?



何の人の群れだろう。
笑い声がかさなるホワイトノイズ。


静かなところにいけば最後の音がわかるかもしれない。
だけど、夏の田舎は虫の声でこんなにもうるさい。



もっと静かなところへ
深い水の底へ。


だけど止められない。全ての音が消えても、自分の内から聴こえてくる音がある。
苦しい。最後の音がわからない。





何も得られぬまま旅は過ぎて。
いつか少年も、都会で学ぶひとりの青年になって。
雑踏になじめず、呼びかける物売りの手をいとわしげに押し退けながら、早足で寒空の下を歩いて、


華やかな音に群がる人たちに出会いました。



路上ライヴ?
二本のギターでこんなに音が出るんだ。

豊かに、切なく。
身を踊らせ、舞うように動く指は弾き、叩き、弦の上をすべる。
それは音の歓喜。
音の妖精たちが集い、リズムにあわせてギター弾きが踊っているような錯覚を感じ。

青年ははじめて音の力に気づきます。
空気をLOVEで満たす見えない魔法。


青年は一瞬で悟ります。
馬鹿じゃないのか僕は!
音から逃げて最後の音にたどりつくわけがないじゃないか!

少年の頃とても音たちを愛していたことを忘れていた青年は、
たくさんの音を聴き始めます。ラジオから、CDから、ライヴから。
自分で歌い、ギターを掻きむしり。
路上で叫び、仲間を集め、仲間たちの音をひとつにして。

無数のはじける音のなかに変わらないものがあることにも気づきます。
かきならす音の数が増えるほど、より鮮明に浮かび上がるもの。

青年は、ふと故郷へ帰りたくなりました。山のおばあさんに大切な音を伝えたくなったのです。

空を見上げると、都会の初雪がはらはらと舞い降りていました。

 

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うちへかえろう